TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

工学部ヒラノ助教授の敗戦

工学部ヒラノ助教授の敗戦ー日本のソフトウェアは何故敗れたのか
今野浩著 青土社刊 定価1500円 税別
Baidu IME_2013-4-6_13-35-27
この本をたった今読了した。この本に出会ったのは、正しくSyncronicityである。3日前にはこの著者のことも著者の一連の作品のことも全く知らなかった。がなんとなく、サーチに引っかかってきたのである。昨日「工学部ヒラノ教授の事件ファイル」(新潮社刊)と「工学部ヒラノ教授と4人の秘書たち」(技術評論社)の2冊を一気に読んだ。そして読まなければならないのは「工学部ヒラノ教授の敗戦」の方だと感じた。2日間で同じ著者の本を3冊読んだことになる。今日読んだ本は第2刷発行日が、2013年3月5日、まだピカピカである。何でサーチしたかと言うと「筑波大学」である。そして著者は筑波大学創成期に敗北を体験した助教授である。お分かりだろうか?私は福田信之氏がどのように現れるか、大学構想やその人事がどのようなものだったのか知りたかったのだ。ついでに学者の世界を思いっきり覗いてしまったが、それは省略する。
「もしもし、筑波大の福田です。幹事長に繋いでください。あ、中曽根君? 例の件で局長に...」と早速P.21に福田副学長が中曽根氏を君付けで呼ぶシーンが現れる。(小見出し「ヘルツ副学長」)
筆者が書こうとすることと、私が知りたいことがピタリと一致するわけではない。福田氏のエピソードは数箇所に現れるが、興味のある方は手にとってお読みいただくとして、ここでは小見出し「筑波の独裁者」の部分だけから少し抜粋するにとどめる。P.188&P.189

ミスター筑波大と呼ばれた福田信之教授は、6年にわたって副学長を務めたあと、学長として6年間筑波に君臨し、1980年代半ばに東京理科大の教授に迎えられた。しかしこの頃を境に、バッタリその名前を耳にすることはなくなった。
反共で連帯を組んだ中曽根康弘氏が総理の座にあった80年代半ばには、もっと活躍してもおかしくなかったはずだが、何故かこの頃はすっかり過去の人になっていた。そして90年代に入ると、筑波大学を建設した功労者としてよりは”筑波の独裁者”、”文鮮明の協力者”という名前が残ったのである。
1994年の秋、ヒラノ教授は福田元学長の訃報に接した。そして週刊新潮の「墓碑銘」欄に載った記事を読んで、同氏が筑波を去ったあと間もなく、自らの意思で世間との繋がりを断ったことを知った。
筑波時代の苦労が原因で、夫人が認知症になったことに責任を感じて(...)

つまり老人ホームに住み込んで自ら介護に当たったが、75歳の誕生日を迎える直前に、福田氏自身がその老人ホームで心臓発作のために亡くなったのだそうだ。ヒラノ助教授が筑波に紛れ込んだ当初は副学長だったそうだが、学長は名ばかり、すでに最初から事実上の独裁者であったらしい。
福田信之:wikipedia 念の為にもう一度リンクを貼っておく。

1980~84年の学長時代は大学の主要ポストが統一教会系の人脈で占められていたとも言われた。同時期、筑波大学では「原理研究会」など統一教会系のカルトサークルが公認され活発に活動していた。

1984年11月に筑波大学で開催された「日仏協力筑波国際シンポジウム“科学技術と精神世界”」は福田信之氏がイヴェントを許可・決定、竹本忠雄氏が事務局長、湯浅泰雄氏が企画委員長、でしたね。
1990年の記事:念の為にもう一度リンクを貼っておく。晩年は「世間との繋がりを断った」というよりむしろ、元筑波大学学長の肩書きで統一教会に専心したと言うほうがより正しいだろう。

・・・・・追記:2013年4月6日・・・・・
今朝目を覚まして、引用すべきところが最低あと二箇所あることを思い出した。P.66、小見出し「反共と原理運動」より

ところが暫くして、福田副学長は自分の味方だと思ったのか、ヒラノ助教授を(統一教会の教祖)文鮮明が資金を出している「世界平和教授アカデミー」に接近させようとした。ノーベル賞級の学者を集めて、ソウルで開催されるシンポジウムに、あご足つきで招待されたのである。(...)辞退したが、ここに参加したK教授は、空港に出迎えた韓国人から100万円の札束を渡され、その後厄介な立場にたたされている。筑波に骨を埋めるつもりで赴任したヒラノ助教授が、この大学をやめることになった原因の一つは、ここにあった。

次は小見出し「学生担当教員」から

この後間もなく大学のあちこちで”ヒラノは民青だ”というビラが撒かれた。反共の斗士・福田副学長がリーダーシップを取る筑波大学で、民青のレッテルが貼られたら致命傷になりかねない。またある晩、駐車場に駐めておいたカローラのタイヤが、鋭利な刃物で切りつけられる事件が起こった。もしこれに気づかずに高速運転していたら、タイヤが破裂していたかもしれない。身の危険を感じたヒラノ助教授は、何らかの手を打つ必要があると考えた。(...)そこでヒラノ助教授は、民青でないことを証明するために、またTCIA(筑波CIA)に守ってもらうために、この仕事(学生担当教員)を引き受けることに決めた。しかしこれで得たものは、”共勝連合の頭目:福田信之の手先”という”民青”とはケタ違いの勲章だった。(...)福田・中曽根人脈に繋がるタカ派評論家など、この大学にはあちこちに”特殊任務”を帯びた教授がうごめいていた。筑波大学の成り立ちを知っている教員は、このような体制を批判しようとはしなかった。それが、どれほど危険なことかを熟知していたからである。(...)こうして、教授会自治の廃止は見事なまでに達成された。(...)学生運動と原理運動を比べれば、その影響は後者の方が遥かに大きい。実際、ヒラノ助教授は学生担当教官として、原理運動グループから離脱を試みてリンチにあい、発狂してしまった学生を親に引き渡すまで、三日間にわたって見張らさられたことがあるが、その学生の言葉の端はしに、リンチの凄まじさを垣間見て、背筋の凍る思いを経験している。(...)自分の身を守るために,実体を承知した上でこの仕事を引き受けたつもりだったヒラノ助教授は、5月のはじめに行われた研修旅行で、認識が甘かったことに気づかされた(...)


Net上の書評も当たってみたが、Tel Quel Japonのような視点からのアプローチはどこにも見られなかった。今回はリンクなしの書物紹介とする。

///////追記:2013年4月8日///////
筑波大学の情報学類は従来の大学の3倍に相当する、世界最大規模の”ソフトウェェア中心”の計算機科学科になる筈だった。ところがソフトウェア陣内の内部抗争と福田物理帝国の総攻撃によって、当初の構想はあえなく瓦解し、結果、日本のソフトウェアは見るも無残に立ち遅れてしまった、というのが本論である。トロンのことも書いてある。目に見えない米国の圧力がかかったのではないかとふと思った。日本がソフトウェア学会を牛耳る?そんな試みを米国が看過する訳がない。などと考えていると、興味ある記事にであった。トロンOSの研究者17名が1985年の航空機墜落事故で一挙に亡くなっているではないか。
参照: ななしの言いたい放題
しかもJALの元エリート社員・佐宗邦皇氏はこの事故を「プラザ合意」と関連付けて解説しておられる。また同氏は米軍機による中性子爆弾ミサイル使用説を唱えていて、動画公開直後の2009年8月9日に、59歳にて不審死されています。???
航空機墜落事故とは例の1985年の御巣鷹山。ここで話題は完全に別の話に移動する。
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JAL123便 パイロットの苦闘(技術編):
日本航空123便墜落事故フライトシミュレート(機外視点)
米軍に攻撃され、しかも自衛隊機に御巣鷹山に激突するように誘導されたなどという話を初めて知った。中性子爆弾使用説もその解説もかなり読んだが、何とも言えない。たしかに「言いたい放題」である。ただなくなった犠牲者の方々の確認は終わっている筈なので、トロンの研究者に関しては事実だろう。それとここまで急に操縦不能に陥るということも、単なる整備不良や金属疲労では考えられない。「爆発音」の確認もレコーダーから聞こえている。外から攻撃を受けたに違いない。誘導機が来ていたのが真実ならば、ダッチロールを繰り返し山の方向に進むのは納得できない。謎が多く動機も不明なので、中性子爆弾説やそのための多くの写真まで、登場するのだろう。
参照JAL123便 日航機墜落事故の真相
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