TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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ちいさいおうち 中島京子 (2) ブリキのジープ

一旦終わったかに見えるこの物語には追記とも呼ぶべき部分があり、そこで語り手が代わる。物語は一気にミステリー小説風な大展開をみせ、作者の作家としての構成力が発揮される。その後半部のキーワードの一つが「ブリキのジープ」。本を読み終えてすぐには気づかなかったが、時をおいてじわじわ思い出してきた。私にも大事な大事な「ブリキのジープ」のおもちゃがあった。つい4,5年前まで大切に保存していた。半世紀以上も処分しなかったモノなどほかにない。シートが赤く車体は真鍮色をしていた。縦に持つと大人の顔が隠れる位の大きさで、ずっしりと重い。そして安定感がある。座席に小さな人形を座らせることも出来た。タイヤはゴムで、一番気に入っていたのは、お尻に結わえた予備のタイヤで、工具を使ってタイヤ交換ができることだった。物語に登場するジープとは時代も違い、その分高級おもちゃになっていたのだろう。兄の木製の列車とぶつかってもビクともしなかった。あちこち錆びて美しくはなくなっていたが、このあいだまで持っていたのだ。

そのジープに包帯を巻いて、Ready-Made Artとして、美術展に出品したことも思い出した。それは1973年、梅新交差点角の安土画廊で行われた「人間ーこの抽象的なるものの中で」というタイトルで行われた正確には詩画展だった。詩誌や所属を超えて大阪の詩人たちがほとんど結集したおそらく最後のイヴェントではなかったかと思う。少しづつ思い出してきた。私の作品は2階の左コーナーで、包帯を巻いたジープの隣には、線香で燃やした革命期ロシアの古紙幣が数枚、灰の中にうもれていて、その下には髑髏の描かれた黒い布(これは現在夜光塗料を施してトイレの戸の裏に貼ってある)を置いた。そしてその前に前にも触れたと思うが1945年3月13日の大阪大空襲の日の父の英文日記をそのペイジを広げてそのまま展示した。さらに床にはブルーの布を波立たせておき、その下に隠したテープレコーダーで来客が少ない時には私たちが成長期に馴染んで育った60年代のAmerican Popsを大量に次々と流した。作品タイトルは「置き去りにされた夜明け」
若くして亡くなった父の、昔のgirl friendだったOさんがみえて私の作品の前で足を止めるやいなや「これはBruxellesさんのお父さんの字ですね、懐かしい!」と叫ばれた。父の日記はタイプ打ちされていて、父の字といえば、数箇所訂正のためにペンを入れているに過ぎない。全部で10文字に満たないアルファベットをみて、それだけでOさんには父の存在が一瞬見えたのかもしれない。それに感動していると、私の無粋な男友達がやってきて私に近づいて真剣に驚いてこう言った。「Bruxellesちゃん、ホテルに泊まって朝おきたら、横にいたはずの男が消えていた、という経験でもあるの?!」なんのことか全く意味がわからなかった。意味を理解できたのは言った本人が帰ってから2,3時間経過してからだ。かれはタイトルの「置き去りにされた夜明け」をそういうふうに解釈したのだ。ゲンナリである。「置き去りにされた夜明け」は以前小説にも使ったタイトルである。父の日記には巻頭にそれぞれ詩のようなものがあり、昭和20年の日記の巻頭に、たしかこんなことが書かれていた。
それでも、いつの日か日本がこの戦争に勝利し、日の丸の旗が御堂筋を埋め尽くす日を、私は待ちわびる」
それを読んだ時、御堂筋の銀杏並木に日の丸の旗がズラリと翻り、戦勝に沸き立つ日本の勝利の風景が、私には見えたのだ。時間を遡るわけにはいかないのに、その後長い間私は亡き父と一緒にその日を待つことにしたのだ。それを私は心の中で「夜明け」と呼んだ。しかし20歳を2,3年過ぎた頃から私は少しは現実に身を置き、その「夜明け」はすでに「置き去りにされた」と意識的に自覚したのだった。しかも永遠に置き去りにされたのだと。


詩画展が終わった翌月くらいだったと思う。Oさんが「新日本文学の今月号にBruxellesさんのことがTOPペイジに出ている」といってその本を持ってきてくださった。1973年新日本文学10月号、特集=文学にとって「終末」とは何か、そのTOP記事が寺島珠雄氏の随筆「感覚と論」、その出だしがこの詩画展であり、私の「シャレコウベ」の作品について、であった。

会期6日間の最終日、やがて片付けにかかるまでの少しの時間にこれを書こうと思い立ったのは、Bruixelles(この部分は本名)という、僕の感じでは一風変わった若い女詩人の提出した「作品」のひとつに、そそられた思いがあるからだ。Bruxellesのその作品は、(以下作品説明のため省略)。

すらすらこうかけるのは、数日前本棚で古い雑誌を探していて、偶然にこの「新日本文学」1973年10月号を見つけていたからだ。もしこの本を見つけていなかったら、「ちいさなおうち」を読んでも、包帯を巻いた私のジープを思い出さなかったかもしれない。

・・・・・・・
寺島珠雄氏をネットで検索して少し驚いた。当時私が遊びに行く友人の家に寺島さんもしょっちゅう来ていて、よく鉢合わせした。個人的に話した記憶はないが、プロレタリア詩人だとは聞いていた。体格ががっちりした誠実そうな人で、その家でも思想的な話はしていなかったと思う。私が社長の家に書類を届けに行くとき、上六でタクシーを降りたら、そこで寺島さんが本当に土方をしているのに出会った、かすかな記憶がある。否、寺島さんがそういう話をしていたよ、と友人から聞いて、見られた自分ではなく、逆に自分が見た話だと勘違いしているのかもしれない。なぜなら私は寺島さんを顔で判断できるほどの視覚的記憶を持たないからだ。

追記:父の日記についてはその存在を生前に聞いていたが、押し入れの底の底からそれを見つけ出したのは私が高校生の時、父が亡くなって既に7年が経過していた。その日記もたくさん紛失したが、見つけた時には、昭和16年あたりから昭和26年位まで途切れ途切れに30冊くらい有り、ほとんど英語で書かれていた。父が祖母と暮らしていた家は1945年3月13日の空襲で丸焼けになっているので、父はおそらく日記の一部をどこかにあらかじめ避難させていたのだろう。その後何度か転居しているはずなので、高校生の私が見つけたときはわずかに30冊に減っていたのだろう。かつて詩画展に展示した、その空襲の日の日記は何度も探してはみたが、今のところ見つかってはいない。焼夷弾の爆風で自転車が電線にぶら下がっていたことや、戦時ヒリテリーに見舞われた人が、畳を持って逃げていた描写などを覚えている。それからたくさんある大阪の川に次々と熱さから逃れようと人が飛び込んだこと。祖母に聞いた話では「この子だけでも防空壕にいれてください」と頼んでいる人がいたが、もう一杯だからダメ、と断られていた、が後でその場に戻ってみると防空壕のなかの人たちは全員死んでいたそうだ。「ちいさなおうち」の旦那様と奥様も、小さなおうちの庭に旦那様が自ら掘った比較的大きな防空壕の中で、亡くなっている。

コメント

おはようございます。嬉しいです。

内容紹介していただきありがとうございます。残念ながら、英語じゃ分かんなくて・・・

本当に、なぜこれが日本語版で出版されてないんでしょうね。まさか、隣国への気遣いでは・・・

  • 2012/12/12(水) 06:33:52 |
  • URL |
  • イーグルス16 #-
  • [ 編集 ]

Re: おはようございます。嬉しいです。

なんだかコメントの場所が違う?ようなのですが。
そちらのURLをURLの欄にお願いします。

  • 2012/12/12(水) 11:01:14 |
  • URL |
  • Bruxelles #-
  • [ 編集 ]

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