TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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朝河貫一とOSSの日本計画

昭和天皇宛の大統領親書を起草したとしてTel Quel Japonの過去記事に朝河貫一のことを書いたことがある。最近見たFilm、東京裁判の東條への尋問でも、真珠湾攻撃直前に届けられたこの親書のことが取り上げられていた。実際のものは草案とは全く異なっていて、ルーズベルトの戦争回避への努力を示すあきらかなハッタリに過ぎない。裁判では東條も、改めて回答すべきことは何もない内容だったと、軽くいなしていた。
先日偶然に書店で「ラジオ深夜便」12月号を手にとったら、朝河貫一のことが書いてあったので、早速購入した。2011年8月11日放送分を文字化したものである。話し手は朝河貫一に関する研究者の山内晴子氏。
簡単に情報を追加すると、朝河は1873年福島県二本松に生まれている。現・早稲田大学時代に本郷教会の横井時雄牧師に洗礼を受けたことが、渡米の直接のきっかけとなったようだ。渡航費は、故郷の友人の他に大西祝、徳富蘇峰、大隈重信、勝海舟などが援助した。日米開戦の2か月前には金子堅太郎枢密院顧問宛に次のようなオープンレターを出している。すなわち、ナチに追随してはならないこと、中国からの軍の撤退、三国同盟の破棄、軍務と民政の分離、民心と教育の解放、世界との自由な交流を進言している。ハルノートに近い内容であることがいささか気になる。天皇の聖旨によって撤退させよと提言している。この文章を読んだハーバード大学のフォッグ美術館東洋部長のラングドン・ウォーナー氏が天皇への大統領親書を朝河に提案した。これにより親書に何故朝河が関わったかの経緯がわかった。
今回Tel Quel Japonで取り上げることにしたのは、放送の後半の部分。山内氏が朝河は戦後の占領政策にも大きな影響を与えたと語っているところだ。山内氏は2005年に出版された加藤哲郎氏の「象徴天皇の起源」を読んで、1942年6月9日にCOI(情報調整局。同月13日にOSSとOWIに改組)が作成した占領政策構想の機密文書、いわゆる日本計画に気づいたらしい。そこで「日本の天皇を(慎重に名前を挙げずに)平和のシンボルとして利用すること」と書かれている発想は朝河の学説を知っていなければ設定できないと思った、と言う。またACLS(アメリカ学術団体評議会)の中にウォーナーを委員長とする日本研究委員会というのがあって、朝河は7人の創立メンバーの一人であって、そこには「日本計画」に重要な役割を果たしたチャールズ・ファーズやヒュー・ボートン、ライシャワーなどが参加していた。42年9月の「ライシャワー・メモ」も、天皇と天皇制に関する見解が朝河と同じだと、つまり天皇制度と民主主義の異文化融合の戦後構想は朝河の学説に基づくと、言うわけである。ラジオ深夜便12月号、の中の15ペイジ分を読めば、もう少し詳しく書かれているが、要約するとこうなる。従って朝河は戦後構想に大きく貢献したという結論になっている。
COIがOSSの前身であり、OSSがCIAの前身であることに気づかれているのだろうか?山内氏の論理で行くと「日本計画」万々歳である。山内氏が朝河貫一の熱烈なファンであり、その思いがこの放送に溢れているとしたら、ある意味藪蛇である。ただ田中英道氏のこの書物が、これだけ保守の大御所の推薦があるにもかかわらず、ほとんど読者の理解を得られていないことを考えると、ラジオのリスナーの9割が、パチパチと拍手をして、そのあと朝河貫一の名前が、1、2時間頭に残ってその後忘れて、おしまい、となるのだろう。
OSSは戦略情報局、OWIは戦時情報局、その前身のCOIは情報調整局、そこは大衆のマインド・コントロールを専門としていたところである。日本人の頭が、自虐史観に洗脳され縛り付けられていることを知る者だけが、COIのOSSのOWIのそしてCIAの戦略の成果をその圧倒的な恐怖を認知するのである。

参照:The News Media at War
参照:COI Came First

・・・・・追記:2011年11月28日・・・・・
このOSSの日本計画に関して再度検証してみた。日本計画の年月、出どころ、内容などは既に記した通りなのだが、個人を特定して誰の発案であったかまでは解明されていない。従ってACLSの中にあった日本研究委員会のメンバーやら、「天皇の聖旨によって撤退させ、戦争を回避せよ」という発想から考えて「To use the Japanese Emperor(with caution and not by name) as a peace symbol」という戦後政策の根本も、朝河貫一の発案だとする山内氏の提言には充分な真実の可能性がある、と気づいた。前にも書いたがRooseveltに提言できる立場にいたこと、日系人なのに財産も剥奪されず地位も奪われず、収容所にも入れられず、交換船で帰国した気配もない、などを考えると、その発言がよほど尊重された人物なのだろう。24歳のとき朝河は徳富蘇峰の国民新聞に「日本の方針を文明最高の思想と一致せしむるに至て、初めて東洋における義務を悟り、世界に対する地位を得る」という内容の一文を寄せている。文明最高の思想とは朝河が感動した「民主主義」のことである。「利用」と言う言葉をまさか朝河が使うとは思わないが、民主主義と天皇制を融合させるために「シンボル」という言葉をひねり出したのは、日本人の朝河の発想ではなかったか。いずれにせよ朝河がアメリカにおいてボートンやファーズに近い大変特別な日本人であったことは確かだ。
参照:萬晩報ーとりあえずご一読下さい。確かに「ビックリ憲法」とその背景
参照:山内晴子氏博士論文に関して
なるほど、日本研究委員会が?だったのだけど、IPRに関連していたんですね。戦後の占領政策に口出ししている立場を考えると、朝河を日本人のOwen Lattimoreだと受け止めると、発想や意見の違いも、立場の類似性も、そして政治的微妙性も理解しやすいかもしれない。そうすると山内氏はさしずめOwen Lattimoreに於ける磯野富士子という角度で見るのがいいかもしれない。保守の論理で見ればの話だけれど。
・・・・・

//////////追記:2011年12月2日//////////
ふと幣原喜重郎のことを思いだした。
朝河との共通点はあるとは思えないが、見解positionは似ている。
幣原マッカーサー会談と憲法9 条:幣原喜重郎
・・・・・

正論 2012年新年号、歌人 福島泰樹の東北の悲憤⑧ 戊辰戦争、二本松城落城までのドラマチックな文章を読んで、朝河が二本松の出身であることを思いだした。これを読むと朝河がアメリカから帰らなかったことがその心理が何となくわかるような気がしてきた。
       takadakoukiti.jpg
参照:朝河 NHK Film
参照:歴史ドキュメンタリー:朝河貫一

1905年アメリカ・ポーツマスで開かれた日露講和会議の場に自主的にでかけ、「日本の戦争目的は賠償金、領土の獲得にあらず」と日本が新しい時代の新秩序のために戦っているという「立場」を主張し、世界に理解を求めます。日露講和条約は結果的に朝河の主張通りに決着したのです。しかし、日本国内世論はこの条約の内容に「弱腰」と怒り爆発、「日比谷焼打ち事件」が起こるなど、その後の日本は大陸進出など戦争への道を歩んでいくことになります。
(自主的に日露講和会議の場に出かけた?結果的にロシアの利益に与していた、何故?小村寿太郎を説得したのが朝河?日露戦争で戦死した人たちにどういうつもりなのだろうか。国内の空気が読めていない人が何故、講和に出かけて影響力を行使したのか?)

参照:二本松藩史

・・・・・追記:2012年8月29日・・・・・
朝河貫一: 国際留学生協会

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