TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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正論 12月号 2011年 & 別冊正論 16

(1)正論12月号 & (2)別冊正論

(1)正論12月号
大東亜戦争の読み方と民族の記憶(上)
京都大学教授 中西輝政
○まず文章の引用のある「はなうさぎ」さんのBlogにリンクさせていただきます。(2011年12月31日追記:12月27日にお亡くなりになった花ウサギ様のご冥福を心よりお祈り致します)
Tel Quel Japonでは先月10月「日米了解案」というカテゴリーを創設して、一般に思われているように松岡がせっかくまとまりかけていた「日米了解案」なるものを握りつぶして、交渉を決裂させようとし、日米開戦を強行しようとした開戦派である、などというのは大間違いであることを証明しようとした。さらに三国同盟に関しても既に資料を集めて、それが決して松岡の独断ではないこと、そしてパワー・バランスの点から、ロシアを封じ込めるために、絡みついてくるアメリカを牽制するために、また完全に孤立無援とならないためにどうしても同盟国を必要としたことなどをさらに詳しく実証しようと考えていた。しかしこの中西輝政氏の記事を読んで、その必要がなくなったと、肩の荷を下ろした。中西氏は私の記憶では、以前は松岡のことを

松岡は、日本を意図的に滅ぼそうとしていた、あるいはそのリスクも顧みずに日本をひたすら対米戦争に突き進ませようとしていた、(というふうな捉え方をされていた。おそらく松岡がIPRで演説をしたことがあるので、深く関係していると思われたためだろう。松岡の資料を調べてこのIPRの演説を見てみたが、田中上奏文を偽物だと説明している内容だった。wikipediaなどで、日本は田中上奏文が本物でないことを国際的に解説したとあるが、内容をよく見ると、全部この時の松岡の演説で、つまりは田中上奏文が偽物であることを国際的に解説し、納得させたのはほかでもない松岡で、松岡ひとりの仕事だったことが分かった。他に誰もそういうことはできないのだ。また後に国際連盟で日本の全権大使として大勢の有力団員を差し置いてあの有名な演説の大役が回ってきたのは、このIPRでの演説能力を評価されてのことだと言うこともわかった。私がこの12月号で肩の荷を降ろしたのは、中西氏が以下のように書いておられるからだ)松岡は、日本を意図的に滅ぼそうとしていた、あるいはそのリスクも顧みずに日本をひたすら対米戦争に突き進ませようとしていた、という人物ではない

従来の昭和史は、日独伊三国同盟を締結した松岡を悪者にしてきた。しかし彼は終始、日米開戦を恐れていて、南部仏印進駐にも強く反対していたのである。三国同盟締結は確かに大きな過失ではあるが、そもそも彼は、日本への圧力を強めつつあったアメリカヘの抑止力としてソ連をまじえた「四カ国同盟」を構想していたのである。(も中西氏の記述である。肩の荷を降ろしただけでなく国会図書館などから多数借りていた不要になった書籍をごっそりと即返却した。最近の「日米了解案」のカテゴリー創設及びその中に書こうとしたことは、対中西輝政氏を念頭に置いて取りかかったということを告白しておく。「従来の昭和史は、松岡を悪者にしてきた」これを明記されるには大変な勇気が必要だったと思う。しかしコンクリートのように固まってしまった東京裁判史観に風穴を開けるには、この楔を打ち壊すのが最善の策なのだ。正義の女神が過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するためには。

また西園寺に関しては

最後の元老、西園寺公望の孫、公一(きんかず)も、その工作網の一員だったと思われる。言うまでもなく、西園寺は盧溝橋事件が起きた一九三七(昭和十二)年以降、尾崎秀実と二人三脚で動き、ドイツ大使館に仲介を頼んだ日本と中国国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)をつぶした。...
そしてその西園寺が実は、先の怪しげな「日米交渉」に関わっていたのである。アメリカの民間人からの素性のよくわからない交渉の打診は、井川が知り合いの西園寺に伝え、西園寺が首相の近衛に伝えた。そして、近衛が交渉開始を決断したのである。(西園寺が怪しいと考えておられるようだ。少し長いがこのYou Tubeを中西氏にお礼として提供したい。西園寺が登場する、この顔、この言葉、中西氏がおっしゃるように「俺は尾崎のアルター・エゴだ」と自分で告白している、わかったところで日本において警察ごときにこの西園寺を逮捕出来まいという表情が読み取れる。(今はやりの言葉を使えば、ドヤ顔そのものである)中西氏はどう判定されるだろうか?

参照:コミンテルンの工作から見る第2次世界大戦 4年前

山田 この尾崎の主張に動いた松岡洋右外相はしつこく即時参戦を繰り返し、単独で天皇にまで上奏した。

(松岡は北進を上奏したのであって、尾崎の主張に動いたわけでも、即時参戦を主張したわけでもない。なかなか興味深い話し合いなのだがこのような、無茶苦茶が時々ある。)

あと少しで「正論」新年号が発売され、中西氏の「大東亜戦争の読み方と民族の記憶(下)」を読むことができる。米国の心理作戦で洗脳され思考停止に陥った昭和の歴史がいよいよ覚悟を決めて手術台に上げられるのか、それとも手術台には相変わらずミシンとこうもり傘がのせられたままなのか、緊張している。

・・・・・2011年12月9日・・・・・
花ウサギさん以外にこちらにもリンク

各種の対日工作が、天皇陛下にまで誤った情報が吹きこまれるほど日本の中枢を完全に巻き込んで成功裏に進んでいなかったら、事態は大きく異なっていただろう。

中西氏の今回の記事が画期的なのは、この部分だ。松岡を排除せよと天皇陛下の発言があったために、恐れ多くて誰も触れなかった。だから70年間も「せっかくの日米交渉の努力が松岡によって握りつぶされた」と定着したままになっていた。さらに富田メモもある。今回の中西氏の記事によって、あるいは西木正明氏の「パールハーバー」によって、初めて日米交渉なるものの実態に目を向けた方もたくさんいらっしゃるだろう。よく言われるように近衛内閣はスパイの巣だった。中枢のほとんどが、騙される状況にあった。誤った情報は常に吹き荒れていたのである。尾崎は近衛のブレーンとしてその周辺で絶大な信頼があり「南進」に向けてのえげつないまでの工作をし、周囲を意のままに操っていた。尾崎の逮捕(その3日後に第三次近衛内閣崩壊)は松岡が排除されてからおよそ3箇月のち、司法省からゾルゲ事件が発表されたのは、それからさらに7箇月のち、真珠湾の日からすでに5箇月以上が経過していた。

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(2)別冊正論
世界のモンゴル学者に愛された〝無冠〟の才媛 磯野富士子
東洋史家 宮脇淳子
○当Blogコメント欄でその著作が話題になっている宮脇淳子氏、You Tubeの講演も楽しい。その宮脇淳子氏が別冊正論で磯野富士子氏を取り上げた。磯野富士子氏が渋沢栄一の曾孫である、と知って吃驚。Tel Quel Japonでは今までに2度磯野富士子氏の名前が出てきた。Owen Lattimore及びHerbert Norman関連である。一体何ものなのであろうか?という不審の目で見てきた。Owen LattimoreもHerbert Normanも日本敗戦後の天皇処遇に関する過激発言で、さらにHerbert Normanはノーマン憲法と呼ばれる日本憲法に関して、そしてまた近衛文麿の自殺の導火線に火をつけた人物として、歴史に興味のある保守派の日本人にはよく知られている筈である。
Tel Quel Japon過去記事1:磯野富士子
Tel Quel japon過去記事2:磯野富士子

参照: Owen Lattimore interviewed by Caroline Humphrey, 21st May 1983 – Part 1
参照:Owen Lattimore interviewed by Caroline Humphrey, 21st May 1983 – Part 2
参照:Owen Lattimore, the first target of Senator McCarthy

ラティモアと磯野富士子の間には岸恵子がゾルゲに向けるような深い共感が存在したのだろうか?宮脇淳子氏にとってのラティモアもやはり岸恵子にとってのゾルゲなのだろうか?信じがたい。少なくとも、磯野富士子氏にとっても宮脇淳子氏にとっても、そして岸恵子氏にとっても赤狩りのMcCarthyはアメリカの狂気であり、ゾルゲもラティモアも愛すべき被害者だという共通認識があるのだろう。モンゴル研究家の宮脇淳子氏にとってラティモアは身内感覚の人、MaCarthyは敵対すべきファシストといった認識ではないだろうか?それともう一つ、渋沢栄一の曾孫である磯野富士子氏が夫と別居してまで何故Lattimoreの学術的・生活的面倒までみようとされたのだろうか?Normanが日本の知的上流階級と強い信頼の絆で繋がっていたように、Lattimoreも日本の知的上流階級の間では、信頼できる人物として何か歴史的パイプでもあったのだろうか?
参照:Tel Quel japon過去記事:Owen Lattimore
参照:Tel Quel japon過去記事:Owen Lattimore
参照:Tel Quel Japon過去記事:Herbert Norman
参照:近年の論壇

中西輝政氏の主張では、ヴェノナ文書やミトロヒン文書により、ジョセフ・マッカーシー上院議員の”赤狩り”が寧ろ、カウンター・インテリジェンスとして正しかったとしている。

・・・・・追記:2011年11月30日・・・・・
渋沢栄一の曾孫である磯野富士子、どうなんだろう以下のことをご存知だろうか?
Owen Lattimoreに関して、ひとつは、日米開戦時に蒋介石を通して、Rooseveltに強い口調で開戦をけしかけさせている。もう一つは:自書「アジアにおける解決」のなかでこう述べている。

天皇と天皇位継承の資格のあるすべての男子は、中国に流して抑留し、国連の監視下に置かれるべきである。

岩波現代文庫「昭和天皇1945-1948」高橋絃著 P.21
終戦後の天皇の処遇に関してラティモアはアチソンと同様”中国派”の代表格であり、それに対する”知日派”にはグルーやボートンらがいた。

渋沢栄一が日本IPR設立の中心人物で評議員会会長だったこと、Owen LattimoreがIPRの機関紙Pacific Affairesの編集者だったことを考えると、磯野富士子氏とOwen Lattimoreの関係はモンゴル研究だけでなく、ずっと古くから家族的な接触もあったのかもしれない。Normanと朝吹登水子氏が軽井沢繋がりの幼馴染であったように。

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