TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Owen Lattimore(4) : 宗家の3姉妹

Lattimore & MacArthy
Lattimore(左下)McCarthy(右上) お互い口をきく事も眼を向けることも無く。Lattimore、人生の正念場だったSeeing Red 誤解だとして、誤解を受けるに充分な行動・体験をしたことにはじめて気づいたOwen Lattimore
日本人の眼から見れば、最後の最後にスパイの身分があばかれて南米に逃走したロークリン・カリーの発言・行動とほとんど双子のようなOwen Lattimoreなのだけれど。どこが違うのだろうか。
日本人の眼から引用: 冷戦

 オーエン・ラティモアは1941年11月~12月の時期、ルーズベルト大統領の個人代表として、重慶政府の蒋介石のもとに顧問として派遣されていた。そこで彼と共に日米開戦に向けて大きな役割を果たすのが、コミンテルンのスパイ・エージェントであった中国担当大統領補佐官のロークリン・カリーである。カリ-は、第二次大戦中から戦後にかけてアメリカ国内で活躍していたKGBやGRUの工作員とモスクワ本部の電信を傍受した記録、通称「VENONA文書」が1995年に公開され、ソ連のエージェントであったことが確証された。
 開戦直前の昭和16年11月、日米交渉は、日本が開戦回避の為に提案した「Z案」の条件で合意する可能性が出てきていた。交渉状況を逐一知る立場のカリ-は「このままでは日米戦争にならない」と慌て、日米交渉妥結の流れを消す為に重慶のラティモアに電信を打つ。カリーの秘密指令に基づいてラティモアは蒋介石に「日米合意が実現すれば、中国の戦線は一瞬にして崩壊し、中国人は二度とアメリカ人を信頼しなくなるだろう」と強い調子でルーズベルトに交渉を妥結しないように迫る電文をホワイトハウスに送らせたのである。 蒋介石からルーズベルトへの電信は最低でも二通が送られたことが明らかになっている。その日付は11月24日、25日。アメリカから日本に向けての最後通牒となった「ハル・ノート」が出されたのが26日であるから、ギリギリのタイミングであった。
 もしもラティモアが重慶におらず、蒋介石にリアルタイムで日米交渉の状況が知らされなければ、日米交渉はギリギリのタイミングで妥結していた可能性は大きかったと思われる。中国共産党と繋がるラティモア、コミンテルンと繋がるカリーの連繋こそ、「日本滅亡」への引き金を引いた恐るべき対日謀略の工作線だったのである。


ラティモア自身の報告はルーズベルトに届けられる前にすべてロークリン・カリーひとりの独占となったと、ラティモアも「中国と私」に書いている。二人は2国間のパイプの両端であった。

2009年7月13日:追記
Lattimore「中国と私」P.186&P.187
「私からカリーに宛てた電報の実際の機能は、私自身の意見を表明するものではなく、蒋介石の見解がどうであるかを、カリーを通してルーズベルト大統領に伝えることであったのだ」と上の引用部分の自分に対する疑惑を否定、弁明している、が。
Lattimore「中国と私」P.187
「日本の陸海軍内部の強引な分子が、今こそ、ヨーロッパの戦争とナチスのソ連攻撃に乗じて、太平洋地区の英国・オランダ・アメリカの所有する植民地や半植民地に対して、日本自身が乗り出すときであるとした、と考える方が妥当であろう。日本は既に1941年7月以来、仏領インドシナに強固な地位を築いていたのであった。」という自身の考えを述べている。この考えがカリーによって増幅されルーズベルト大統領に伝えられた、とする上の引用部分にこそ理があると思える。上の引用に書かれている蒋介石からルーズベルトへの電信は作Lattimore,脚色カリー、だと言うことを、自ら断言し、結果として上の引用文の主張が、どんぴしゃり的を得ていることを、いみじくも証明する結果となっている。
またLattimore「中国と私」P.81では編集していたIPRの機関誌「Pacific Affairs」に関して「親日的な論文より反日的なものをずっと多く掲載していた。北京を日本がコントロールする体制の下では、編集の仕事ももう長く続けられないのは目に見えていた。」と反日ではないと言いながらも反日的態度を露にしている。何故そこまで、と思うほどにである。松方三郎や近衛文麿をはじめとして「日本のインテリの中には、マルクス主義について豊富な知識をもつ、影響力のある重要な人物が少なくない。P.82」と言う確信が彼にはあり、むしろ彼の知る多くの日本人との共感を強めるために、こういう態度を固めたのではないかとも思えるくらいだ。

///////////////////////////

宗靄齢、宗慶齢、宗美齢の三姉妹 長女は大財閥の御曹司・孔祥煕と、次女は革命家・孫文と三女は若き軍司令官蒋介石と結婚。
映画「宗家の3姉妹」:
参照:The Soong Sisters No.1: No.2 : No.3
参照:Wikipedia 孔祥熙 : 宋子文 :

追記:2009年7月13日
Lattimore「中国と私」p.264

1949年の12月、遂に蒋介石と国民党員達が台湾に避難しなければなら無くなった時、「アメリカをして中国を失わしめたのは誰だ」と言う問いが、熱を帯びた議論の的となった。まるで中国がアメリカに属していたことがあったかのように。


唸ってしまうほどの鋭い指摘である。Lattimoreならではの鋭さを感じたが果たしてそうだろうか。Lattimoreは蒋介石の私的顧問ではあったが、Lattimoreにとって国民党とは終始日本と闘うための組織でしかなく、彼の敬愛するChinaは紛れも無く中国共産党であることは、この本を読んでいると強く感じる。だからこそ、この鋭い指摘がLattimoreには可能なのだ。宗家の3姉妹のなかで、彼が好意的に書くのはただひとり宗慶齢のみである。Smedleyを初め彼の筆で好意的に描かれるのは中国共産党側の人物ばかりである。
Lattimore「中国と私」p.240
ゾルゲ事件に関してウィロビーに公聴会に引っ張り出されたことにも、p.240でほんの少し触れている。Lattimoreは憤慨しているが彼の言動、人的接触、そしてその成果から判断して、ウィロビーの着眼こそむしろ理の当然である。
参照:Tel Quel Japon過去記事:陳翰笙

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/tb.php/163-fe26138c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。