TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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Owen Lattimore-3 中国と私

Owen Lattimore
(L to R) Claire L. Chennault, Professor Owen Lattimore and Generalissimo Chiang Kai-Shek leisurly talking and relaxing at Chiang Kai-Shek's home. February 1941, Chungking, China.
シェンノートと蒋介石にはさまれて、何をお話でござるか、Owen Lattimoreセンセ。
Owen Lattimoe-1に置いたOwen Lattimoreの2本のVideo、YouTubeで見つかったので、ここに再度置くことにします。
Owen Lattimore-1 : Owen Lattimore-2 Interview
かなり高齢(1983)できわどい話はしていないが。
これも再度:参照:Notes on Owen Lattimore:
怪しげな人物をたどるとしばしばここに到るJOHNS HOPKINS大学。Lattimoreもここで教えていた。その大学のmagazineにLattimoreのことが出ていたのでリンクします。スパイ容疑や偽証罪に問われた事件に触れている。
Owen LattimorerにふれたペイジにTrackbackしてみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1966年から1989年のLattimoreの死まで、Lattimoreと共にモンゴル研究を行った日本人女性、磯野富士子氏の存在を知った。1992年9月20日みすず書房刊「ラティモア 中国と私」を今手にしている。この本はラティモアが自分で書いたのではなく、口述したのですらない。「オーエン・ラティモアが何をどのように覚えていたか」の記録に過ぎない、と訳者あとがきにあるように、編集、翻訳、企画、出版何から何まで一手に引き受けた磯野富士子氏の労力の結集である。英文の原本「CHINA MEMOIRS-Chiang Kai-shek and the War Against Japan」もCompiled by Fujiko Isonoとなっていて,東京大学出版会から出版されている。1963年~70年までLattimoreはリーズ大学中国学部学部長であり、磯野氏はリーズ大学で講師をされていたので、お互いモンゴル研究家としての出会いがあったのだろう。つまり66歳以降のLattimore氏だけが、磯野氏の頭の中にあるのだろう。IPRやらゾルゲ事件やらOWI(戦時情報局)やら日中戦争やら、日本の戦後処理やら、マッカーシーやらマッカランやら、のLattimoreがLattimore自身にも他人事のように感じる頃に、磯野氏はLattimoreに偏見なく出会われたのだろう。Lattimoreが強い反日論者だったともしご存知なら、とてもこのような労は取れないと思うからだ。

追記:2009年7月24日
Owen Lattimore のお仲間風人物の紹介
1.Anna Louise Strong
資料1. 資料2. 資料3. 資料4.. 資料5
Witness to Revolution:
The Story of Anna Louise Strong 4:40
2.Nym Wales(Helen Foster Snow)
資料1

テーマ:戦争 - ジャンル:政治・経済

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