中島「私の祖母も戦時中を振り返って、宝石の供出とか、文化的な催しがなくなっていったことへのいらだちをふっと口に出すことがありました...私が大学生だった80年代、景気が右上がりにどんどん良くなっていきそうだった時代に、「ちょっと嫌だわね、戦前みたいで」と言ったんです。
中島「私にとって戦前は、軍靴の音が響いてくるイメージしかありませんでしたし、バブルのお祭り騒ぎの気配とはギャップがありました。だから「おばあちゃんは何を言っているんだ」としか思わなくて...そのことも、この小説を書いた遠いきっかけになっています。そして戦前について調べ始めたら、明治以降に取り入れた西洋文化が成熟した時代だったとわかったんですね。」
だとすると私の読み方も特別間違ってはいなかったことになる。
宝石の供出で思い出した。ある時、祖母が帯留めをしながら、装飾品を指差し「Bちゃんにこれを形見にあげるからね」と言ったことがある。「全部宝石は供出して、これは、もともと指輪だったものを帯留めにしたから残っている」と言った。後にそれを頂いたが、よく見ると宝石の中でも一番安物のアメジスト、しかもキズモノ、多分供出して、価値がないからと突っ返されたものだろう(形見なので、今でも大事に持ってはいるが)。供出の言葉をまだ知らなかったが、私は5歳の頃、供出というものがどれだけ凄まじいかを実際に見たことがある。しばらく祖母が住んでいた親戚の心斎橋の石原ビルに、祖母に会いに行った時だ。階段のノンスリップに使われていた金属部分が、全部、ハンマーで叩き取られているのを見た。つまり金属の滑りどめを剥がすために階段がボロボロに打ち壊されていた。子供心にも廃墟を思った。正面にはエレベーターがあったのだが、二重ドアの全てが持ち去られ、本来の金属部は板になっていて、滑車もなく、動く気配もなくてエレベーターがそこで口を開けて死んでいるのをみた。多分「何故か?」と質ね、父が供出の説明をしたのだろう。さすがに進駐軍はもういなかったが、心斎橋筋には傷痍軍人がたくさんいたし、地下鉄の入り口には回数券をバラ売りし一枚分の利益を出す、「回数券売り」のおばさんもいた。だから供出の実際を見てわたしが真っ先に感じたのは、日本人であることの連帯感であった。そこに読み取ったのは挙国一致の精神、それゆえに日本人同士は助け合わなければならないと強く思った。後年従姉妹が私に言った言葉を思い出す。「Bちゃんは、よく、日本人同士だからね、っていう言い方をするね」って。もし私がそういうことをしょっちゅう言っていたとすれば、挙国一致の精神で死んでいったあの口を開けたままのエレベーターが私をそのように教育したのだろう。
中島氏が書いておられる戦前とバブルの比較だが、こういう理解はどうだろうか。
私の祖母はめったに自分から過去を語らなかったが一度、満鉄の株券について話したことがある。隣組からそれぞれの家に満鉄の株の購入割り当てがあり、戦争後半になると買いたくなくても買わされて、現金の大半を株券にした、その株券が敗戦後紙くずになったと。「それをどう思うの?」と聞いたら「自分ひとりが着の身着のままになったわけではない。満州で生活の場を失って引き上げた人、空襲で死んだ人、戦場で餓死した人、手足をなくした人、息子をなくした人、本人が死んだ人、みんながそれぞれにそれぞれの悲しみや不幸を背負った、日本全体が敗けて、挙国一致で耐えるとき、いつか挙国一致で頑張ってそれぞれの重石をはねのければいい。連帯感があるから、不幸も不満もない、否あってもそんなことを言っている場合ではない」と言った。そこで私は思うのだが、満鉄の株は、初めから紙くずだった訳ではない。「生命線」の満州に日本人の夢は膨らんだ筈だし、満鉄の株には買い手が殺到してバブル期のように、株そのものも高騰し、高配当も出たのだろう。小さなおうちの旦那様のおもちゃの会社は、戦闘機や戦車など軍事関連の軍国おもちゃで、戦前はかなりの拡張発展を遂げていく。日本全体の貿易も順調だった。中島氏のおばあちゃんが、あのバルル期を「戦前みたいだ」と感じられたことは、これで説明が付くはずだ。こういう目にあわなかったら、日本は戦争をする必要は全くなかったのだ。そして今月号の「正論」で渡辺昇一氏が書いておられるように「戦前暗黒史観との決別」は、日本人にとって、今急務である。「ちいさいおうち」を5回にわたって取り上げたのは、この小説がそのための一翼を担ってくれると信じるからである。
(追記)石原ビルで思い出したが、1945年3月13日の大阪大空襲のとき、土地勘のある人は、近所の人もみんなこの石原ビルを目指して逃げたのだそうだ。犬の鎖を解くために一旦火をくぐって家に戻った父は、脱出が遅れて、母親、つまり祖母とはぐれる。どこに逃げたのか死んだのかもわからない。父がビルの地下室に辿りついたとき、そこは避難するひとたちでごったがえしていた。打ち合わせていたわけではないが、地下室の奥の奥に命からがら逃げてきた祖母の姿があったそうだ。父の安堵が日記を読んでいても伝わってきた。