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TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

小さいおうち 中島京子(5) 文庫本対談

文庫本の「小さいおうち」には最後に作者の中島京子と船曳由美氏の対談がある。

中島「私の祖母も戦時中を振り返って、宝石の供出とか、文化的な催しがなくなっていったことへのいらだちをふっと口に出すことがありました...私が大学生だった80年代、景気が右上がりにどんどん良くなっていきそうだった時代に、「ちょっと嫌だわね、戦前みたいで」と言ったんです。
中島「私にとって戦前は、軍靴の音が響いてくるイメージしかありませんでしたし、バブルのお祭り騒ぎの気配とはギャップがありました。だから「おばあちゃんは何を言っているんだ」としか思わなくて...そのことも、この小説を書いた遠いきっかけになっています。そして戦前について調べ始めたら、明治以降に取り入れた西洋文化が成熟した時代だったとわかったんですね。」


だとすると私の読み方も特別間違ってはいなかったことになる。
宝石の供出で思い出した。ある時、祖母が帯留めをしながら、装飾品を指差し「Bちゃんにこれを形見にあげるからね」と言ったことがある。「全部宝石は供出して、これは、もともと指輪だったものを帯留めにしたから残っている」と言った。後にそれを頂いたが、よく見ると宝石の中でも一番安物のアメジスト、しかもキズモノ、多分供出して、価値がないからと突っ返されたものだろう(形見なので、今でも大事に持ってはいるが)。供出の言葉をまだ知らなかったが、私は5歳の頃、供出というものがどれだけ凄まじいかを実際に見たことがある。しばらく祖母が住んでいた親戚の心斎橋の石原ビルに、祖母に会いに行った時だ。階段のノンスリップに使われていた金属部分が、全部、ハンマーで叩き取られているのを見た。つまり金属の滑りどめを剥がすために階段がボロボロに打ち壊されていた。子供心にも廃墟を思った。正面にはエレベーターがあったのだが、二重ドアの全てが持ち去られ、本来の金属部は板になっていて、滑車もなく、動く気配もなくてエレベーターがそこで口を開けて死んでいるのをみた。多分「何故か?」と質ね、父が供出の説明をしたのだろう。さすがに進駐軍はもういなかったが、心斎橋筋には傷痍軍人がたくさんいたし、地下鉄の入り口には回数券をバラ売りし一枚分の利益を出す、「回数券売り」のおばさんもいた。だから供出の実際を見てわたしが真っ先に感じたのは、日本人であることの連帯感であった。そこに読み取ったのは挙国一致の精神、それゆえに日本人同士は助け合わなければならないと強く思った。後年従姉妹が私に言った言葉を思い出す。「Bちゃんは、よく、日本人同士だからね、っていう言い方をするね」って。もし私がそういうことをしょっちゅう言っていたとすれば、挙国一致の精神で死んでいったあの口を開けたままのエレベーターが私をそのように教育したのだろう。
中島氏が書いておられる戦前とバブルの比較だが、こういう理解はどうだろうか。
私の祖母はめったに自分から過去を語らなかったが一度、満鉄の株券について話したことがある。隣組からそれぞれの家に満鉄の株の購入割り当てがあり、戦争後半になると買いたくなくても買わされて、現金の大半を株券にした、その株券が敗戦後紙くずになったと。「それをどう思うの?」と聞いたら「自分ひとりが着の身着のままになったわけではない。満州で生活の場を失って引き上げた人、空襲で死んだ人、戦場で餓死した人、手足をなくした人、息子をなくした人、本人が死んだ人、みんながそれぞれにそれぞれの悲しみや不幸を背負った、日本全体が敗けて、挙国一致で耐えるとき、いつか挙国一致で頑張ってそれぞれの重石をはねのければいい。連帯感があるから、不幸も不満もない、否あってもそんなことを言っている場合ではない」と言った。そこで私は思うのだが、満鉄の株は、初めから紙くずだった訳ではない。「生命線」の満州に日本人の夢は膨らんだ筈だし、満鉄の株には買い手が殺到してバブル期のように、株そのものも高騰し、高配当も出たのだろう。小さなおうちの旦那様のおもちゃの会社は、戦闘機や戦車など軍事関連の軍国おもちゃで、戦前はかなりの拡張発展を遂げていく。日本全体の貿易も順調だった。中島氏のおばあちゃんが、あのバルル期を「戦前みたいだ」と感じられたことは、これで説明が付くはずだ。こういう目にあわなかったら、日本は戦争をする必要は全くなかったのだ。そして今月号の「正論」で渡辺昇一氏が書いておられるように「戦前暗黒史観との決別」は、日本人にとって、今急務である。「ちいさいおうち」を5回にわたって取り上げたのは、この小説がそのための一翼を担ってくれると信じるからである。
(追記)石原ビルで思い出したが、1945年3月13日の大阪大空襲のとき、土地勘のある人は、近所の人もみんなこの石原ビルを目指して逃げたのだそうだ。犬の鎖を解くために一旦火をくぐって家に戻った父は、脱出が遅れて、母親、つまり祖母とはぐれる。どこに逃げたのか死んだのかもわからない。父がビルの地下室に辿りついたとき、そこは避難するひとたちでごったがえしていた。打ち合わせていたわけではないが、地下室の奥の奥に命からがら逃げてきた祖母の姿があったそうだ。父の安堵が日記を読んでいても伝わってきた。

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ちいさいおうち 中島京子 (4) 皇紀2600年

2600

昭和15年12月14日、入場料は2.5円、紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会に奥様は東京歌舞伎座にお出かけになる。この小説が万が一恋愛小説だとしたら、ここは男と女が二人きりの時を楽しむ重要な場面である。

昔こんな歌を学校で歌ったと、母が一度私に歌ってきかせた曲を思い出した。奉祝國民歌 紀元二千六百年 No.1 :
奥様が行かれた歌舞伎座の演奏会について資料を探してみた。
Baidu IME_2013-1-8_14-18-53
↑フランスのイベールの作品を指揮する山田耕作氏
演奏会そのもののFILM最初の2分間
皇紀2600年奉祝曲 wikipedia:

(しかし、ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」は到着が大いに遅れた。そのうえ「日本の紀元2600年を祝う場にふさわしくない」という理由で物議をかもし、写譜が間に合わないうちにイギリスが敵性国家になったので、結局ブリテンの名は消え、作品は演奏されなかった(委嘱料の支払いは行われている):追記2012年12月29日:今朝目を開けてしばらく考えていたが、奉祝曲のタイトルが「レクイエム」、こんな失礼な話があるだろうか。明らかにChurchillの挑発、しかも芸術に名を借りた悪意に満ちた挑発だ、と気づいた。真珠湾の一報を聴いてChurchillがどれだけ欣喜雀躍したかを史実として充分に知りすぎた人間にとって、イギリスの挑発だということはよくわかる。)

私のレコード棚から & Langsamer Satz
R.シュトラウス:皇紀2600年奉祝音楽(日本初演):
Jacques Ibert: Ouverture de fête (1940) :
Benjamin Britten Sinfonia de Requiem

紀元二千六百年式典
式典だけで無く、提灯行列に花電車も出てくる、身に感じるためのお薦めfilmである。
日本ニュース元ペイジ:年代別&撮影地別
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改めて本を読み直しているとこんな歌も出てきた。初めて聞く。
比島決戦の歌比島決戦の歌歌詞
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追記:
Tel Quel Japon過去記事で、今回本当に言うべきことをおっしゃっているのは渡辺昇一氏だと書いている。その渡部昇一氏が「正論」の2月号で「諸悪の根源ー「戦前暗黒史観」との決別」という記事を書いておられる。Tel Quel Japon過去記事、に類似した主張である。「明るく立派だった戦前の日本」という小見出しのところでは「もしも月給が上がったら」や「うちの女房にゃヒゲがある」などの流行歌を取り上げられている。それで思い出した。私も9月にこういうペイジを作っている。年代はばらばらで戦前のものばかりではないが、「日本人は楽しい」ということを言うために、敢えてこういう曲を集めてみたのだと思う。「どんぶりばちゃ浮いた浮いた、ステテコシャンシャン」などという歌をヒットさせる非常に楽しい国民なのだ、ということをクリックして確認していただきたい。

ただ「正論」2月号には、これとは反対になんてことを書くのか、と根源的にゲンナリした文章もあった。p.288からの文章である。こんな日本人認識で東京裁判史観打破、などできるわけがない。もうプリプリである。
くらきより
暗き道にぞ入りぬべき
遥かに照らせ山の端の月(拾遺和歌集より)、を出して、こう繋いでいる。
この歌は、煩悩に苦しみ、無明の心の闇をさ迷う私に、西の空に輝く月よ、私をその光で導いてください、という意味だ(...)古の日本人は自分が無明の心の闇にさ迷う哀れな存在であることを、痛切に自覚していた。これは世界と自分に対する日本人独特の深い現実認識と現実感覚だった(...):ながながと続き最後はこの「山の端の月」こそ天皇の存在である、と繋ぐ。まるで他の筆者とは次元の違う、亡き出雲井晶氏並みの読者の共感を得るがための嘘くさい媚そのものである。別にどこに繋ごうと帰結しようと構わないのだが「心の闇」がいただけない。はっきり言おう、日本人の心に「無明の心の闇」など無い!その程度の比喩を使うとすれば、日本人の心には闇夜に於いてさえ、光り輝く月がひとりひとりの中に存在している、そういう立派に成人した国民なのだ。水島さんの「お話」に寄りかかっていては、天皇制の存続のためには前提として「無明の闇を心に抱える」まるで地獄を這いずり回る餓鬼のような国民の存在が必要となる。長い間深くそのように考えてこられたのだろうから、今更とやかく言うつもりはない。しかし、本質的に日本人は明るい、楽しい、優しい、と私は思う。キリスト教徒は原罪という前提を必要とするが、日本人は「心の闇」やら「山の端の月への全的依存」などで、説明すべき民族ではない。第一「山の端の月」では信仰論にはなり得ても国体論には一切成りようがないではないか。またもや大勢の保守の方から誤解されそうな文章を書いてしまったが、P.288からの文章の奥の奥に払拭しきれていない自虐史観があるように感じたからだ。よく読めばこの文章は根底では、OSSが利用した東京裁判史観から一歩も脱していないことが分かるはずだ。
保守の期待の星、水島さんであればこそ、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の覚悟を持って敢えてプリプリの気持ちを文章化してみた。

・・・・・追記:2013年1月2日・・・・・
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月(拾遺1342)
和泉式部のこの歌、今朝この歌からLuna Tucumanaという名曲を思い出した。
Luna Tucumana Bruxellesの和訳ペイジ月田秀子
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読者がお正月に手にする本だからという訳で、多分水島さんは、取ってつけたような日本人論を書かれたのだろう。短詩型文学的に言って、書き起こしに選択した詩歌で、まず滑っている。こんなものを探してきて、挙句に日本人に「心の闇」を既成事実のように押し付ける、いくらなんでもお馬鹿中学生の作文レベルだ。水島さんを貶すつもりは全くない。ただ「どうする日本国憲法、大討論」のPart1で「帝国憲法は生きている、帝国憲法の復活」をと発言された方なら、むしろ「愛国行進曲」を持ってきて解説しドーンと大肯定されるのは、どうだろう。
暗きよりは、和泉式部 10代か20代の単なる煩悩の歌であり、代表作でもない、日本の心を読み取れるほどの才ある大歌人でもない。なぜこんなもので日本を語ろうとされるのだろうか?水島さんお一人について言っているのではない。このように口では戦前の日本を憧憬しつつも心では決して肯定できない隠れた強いambivalentな感情を、大半の保守系日本人に認めてしまうのだ。何十年経っても議論が議論で終わってしまう、ひとつの大きな原因であると思うので、敢えて水島さんの文章に再度、しかも新年早々に絡んでみた。

ちいさいおうち 中島京子 (3) 東京オリンピック

...昭和10年には、5年後には東京大会が開かれると、それこそ誰もが思っていた...私は今でも、あのころのウキウキした東京の気分を思い出すと楽しくなる。
おばあちゃんは間違っている。昭和10年がそんなにウキウキしている訳がない、昭和10年には美濃部達吉が「天皇機関説問題」で弾圧されて、その次の年は青年将校が軍事クーデターを起こす「2・26事件」じゃないか、いやんなっちゃうね、ボケちゃったんじゃないの、というのだ。
人聞きの悪い、誰がボケるものか...
...しかし、あのころは、日本では「事変」はあっても「戦争」はなかったし、「戦争」と言ったら、イタリーとエチオピアとか、スペイン内戦のことだったんだと言ったら、健史は心の底から腹を立てたらしく、目を剥いた...


たきおばあちゃんの手記を甥の次男の健史が覗き見して、不満を述べている場面である。本来のテーマから外れるかもしれないが私がこの本で一番興味深いと思うのは、戦後教育を受けた大学生の健史の意見とおばあちゃんの手記がことごとく対立する場面である。推薦拡散希望の理由は、もうお分かりだろう。日常生活をありのままに淡々と綴った東京の女中さんの「心覚えの記」が、力強く日教組教育を打ち砕くところにある。
5年後の東京大会、とあるのは東京オリンピックのことである。昭和11年に決定している。
12th8.jpg
幻の東京オリンピック:その1 & その2
Baidu IME_2012-12-13_14-41-48
昭和13年には2年後の万国博覧会の入場券が発売されている。↑
ちいさなおうちの旦那様も長い列に並んで12枚一綴りの回数券を10円で購入。上の写真でもわかるが富くじが付いていて一等は家が一軒建てられる位の大金であったとか。さらに札幌での冬季オリンピックも決定。
タキおばあちゃんは昭和13年が坊ちゃんの小学校入学年だったことを思い出す。小学校で坊ちゃんが最初のお遊戯会のために覚えさせられた歌と踊りを思い出し、お正月のある日一人で試しに姿見の前で踊ってみるのだった。私もつられて声に出して歌ってみた。
その曲がこれである。そしてタキさんはあの頃の奥様とのウキウキしたお正月を回想する。少なくとも今の日本人のような精神の萎縮はどこにも見られない。
しかし昭和13年も夏を迎える頃、両オリンピックは返上、万国博覧会は延期が決定される。景気の良かった旦那様の会社も雲行きが怪しくなる。当然彼女は彼女の見た事実を素直に書くのである。
筆者の中島京子氏の綿密な取材力のおかげで、見たこともない時代の空気を感じることが出来た。お正月の食べ物、着るもの、行事、しきたり、そして時代の景気、雰囲気が、何より戦前の日本が、ちいさなおうちに限定はされるが、よく伝わってきた。

追記:関東大震災から7年目の昭和5年、一番上の場面より5年前、帝都復活祭があったと書かれている。これはタキさんが奥様から聞き知るお話。東京の真ん中を花電車が何台も走って、沿道には日の丸を振る人がいっぱいで、夜どうし明るい提灯の列が並んだ。あれは心華やぐお祭りだったと。夜を徹した提灯行列や花電車のことは大阪市東区大川町に住んでいた祖母にも何度か聞いていたが、帝都復活祭は初めて聞く。探してみたら「花電車」の絵葉書が見つかった。
帝都復興祭記念 奉祝 花電車 & 帝都復興祭の仲見世
引きこもりや鬱病、自殺者、自傷者、あるいはそれでなくても不景気な暗い顔の現代人と比べて、戦前は随分と楽しそうではないか。昔のお正月は楽しかったと祖母もよく言っていた。お正月の支度を済ませ、除夜の鐘を聞いてから、家族全員、親族とも誘い合わせて心斎橋やら道頓堀に繰り出して、ということは深夜から夜明けまで「遊んだ」と言っていた。お店も開いていて大勢の人たちが繰り出し大賑わいだったのだろう。

日本人の生活の中に楽しさと誇りがあった、喜びもあった、帝国政府がイヴェントを仕掛けたり様々な企画をしたり、国民に生活の楽しさを享受させるという国家の義務を自覚していたのだ。その前提なくして強い陸海軍も生きてこないし「欲しがりません勝つまでは」などというお達しに当然の如く従おうという国民の存在もあり得なかったのではないだろうか?

/////追記:2012年12月14日/////
紀元二千六百年式典
内閣総理大臣近衛文麿
寿詞(よごと)奏上:音声
元サイト:探検コム
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紀元二千六百年記念特別観艦式
You Tube(昭和15年10月11日)
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ちいさいおうち 中島京子 (2) ブリキのジープ

一旦終わったかに見えるこの物語には追記とも呼ぶべき部分があり、そこで語り手が代わる。物語は一気にミステリー小説風な大展開をみせ、作者の作家としての構成力が発揮される。その後半部のキーワードの一つが「ブリキのジープ」。本を読み終えてすぐには気づかなかったが、時をおいてじわじわ思い出してきた。私にも大事な大事な「ブリキのジープ」のおもちゃがあった。つい4,5年前まで大切に保存していた。半世紀以上も処分しなかったモノなどほかにない。シートが赤く車体は真鍮色をしていた。縦に持つと大人の顔が隠れる位の大きさで、ずっしりと重い。そして安定感がある。座席に小さな人形を座らせることも出来た。タイヤはゴムで、一番気に入っていたのは、お尻に結わえた予備のタイヤで、工具を使ってタイヤ交換ができることだった。物語に登場するジープとは時代も違い、その分高級おもちゃになっていたのだろう。兄の木製の列車とぶつかってもビクともしなかった。あちこち錆びて美しくはなくなっていたが、このあいだまで持っていたのだ。

そのジープに包帯を巻いて、Ready-Made Artとして、美術展に出品したことも思い出した。それは1973年、梅新交差点角の安土画廊で行われた「人間ーこの抽象的なるものの中で」というタイトルで行われた正確には詩画展だった。詩誌や所属を超えて大阪の詩人たちがほとんど結集したおそらく最後のイヴェントではなかったかと思う。少しづつ思い出してきた。私の作品は2階の左コーナーで、包帯を巻いたジープの隣には、線香で燃やした革命期ロシアの古紙幣が数枚、灰の中にうもれていて、その下には髑髏の描かれた黒い布(これは現在夜光塗料を施してトイレの戸の裏に貼ってある)を置いた。そしてその前に前にも触れたと思うが1945年3月13日の大阪大空襲の日の父の英文日記をそのペイジを広げてそのまま展示した。さらに床にはブルーの布を波立たせておき、その下に隠したテープレコーダーで来客が少ない時には私たちが成長期に馴染んで育った60年代のAmerican Popsを大量に次々と流した。作品タイトルは「置き去りにされた夜明け」
若くして亡くなった父の、昔のgirl friendだったOさんがみえて私の作品の前で足を止めるやいなや「これはBruxellesさんのお父さんの字ですね、懐かしい!」と叫ばれた。父の日記はタイプ打ちされていて、父の字といえば、数箇所訂正のためにペンを入れているに過ぎない。全部で10文字に満たないアルファベットをみて、それだけでOさんには父の存在が一瞬見えたのかもしれない。それに感動していると、私の無粋な男友達がやってきて私に近づいて真剣に驚いてこう言った。「Bruxellesちゃん、ホテルに泊まって朝おきたら、横にいたはずの男が消えていた、という経験でもあるの?!」なんのことか全く意味がわからなかった。意味を理解できたのは言った本人が帰ってから2,3時間経過してからだ。かれはタイトルの「置き去りにされた夜明け」をそういうふうに解釈したのだ。ゲンナリである。「置き去りにされた夜明け」は以前小説にも使ったタイトルである。父の日記には巻頭にそれぞれ詩のようなものがあり、昭和20年の日記の巻頭に、たしかこんなことが書かれていた。
それでも、いつの日か日本がこの戦争に勝利し、日の丸の旗が御堂筋を埋め尽くす日を、私は待ちわびる」
それを読んだ時、御堂筋の銀杏並木に日の丸の旗がズラリと翻り、戦勝に沸き立つ日本の勝利の風景が、私には見えたのだ。時間を遡るわけにはいかないのに、その後長い間私は亡き父と一緒にその日を待つことにしたのだ。それを私は心の中で「夜明け」と呼んだ。しかし20歳を2,3年過ぎた頃から私は少しは現実に身を置き、その「夜明け」はすでに「置き去りにされた」と意識的に自覚したのだった。しかも永遠に置き去りにされたのだと。


詩画展が終わった翌月くらいだったと思う。Oさんが「新日本文学の今月号にBruxellesさんのことがTOPペイジに出ている」といってその本を持ってきてくださった。1973年新日本文学10月号、特集=文学にとって「終末」とは何か、そのTOP記事が寺島珠雄氏の随筆「感覚と論」、その出だしがこの詩画展であり、私の「シャレコウベ」の作品について、であった。

会期6日間の最終日、やがて片付けにかかるまでの少しの時間にこれを書こうと思い立ったのは、Bruixelles(この部分は本名)という、僕の感じでは一風変わった若い女詩人の提出した「作品」のひとつに、そそられた思いがあるからだ。Bruxellesのその作品は、(以下作品説明のため省略)。

すらすらこうかけるのは、数日前本棚で古い雑誌を探していて、偶然にこの「新日本文学」1973年10月号を見つけていたからだ。もしこの本を見つけていなかったら、「ちいさなおうち」を読んでも、包帯を巻いた私のジープを思い出さなかったかもしれない。

・・・・・・・
寺島珠雄氏をネットで検索して少し驚いた。当時私が遊びに行く友人の家に寺島さんもしょっちゅう来ていて、よく鉢合わせした。個人的に話した記憶はないが、プロレタリア詩人だとは聞いていた。体格ががっちりした誠実そうな人で、その家でも思想的な話はしていなかったと思う。私が社長の家に書類を届けに行くとき、上六でタクシーを降りたら、そこで寺島さんが本当に土方をしているのに出会った、かすかな記憶がある。否、寺島さんがそういう話をしていたよ、と友人から聞いて、見られた自分ではなく、逆に自分が見た話だと勘違いしているのかもしれない。なぜなら私は寺島さんを顔で判断できるほどの視覚的記憶を持たないからだ。

追記:父の日記についてはその存在を生前に聞いていたが、押し入れの底の底からそれを見つけ出したのは私が高校生の時、父が亡くなって既に7年が経過していた。その日記もたくさん紛失したが、見つけた時には、昭和16年あたりから昭和26年位まで途切れ途切れに30冊くらい有り、ほとんど英語で書かれていた。父が祖母と暮らしていた家は1945年3月13日の空襲で丸焼けになっているので、父はおそらく日記の一部をどこかにあらかじめ避難させていたのだろう。その後何度か転居しているはずなので、高校生の私が見つけたときはわずかに30冊に減っていたのだろう。かつて詩画展に展示した、その空襲の日の日記は何度も探してはみたが、今のところ見つかってはいない。焼夷弾の爆風で自転車が電線にぶら下がっていたことや、戦時ヒリテリーに見舞われた人が、畳を持って逃げていた描写などを覚えている。それからたくさんある大阪の川に次々と熱さから逃れようと人が飛び込んだこと。祖母に聞いた話では「この子だけでも防空壕にいれてください」と頼んでいる人がいたが、もう一杯だからダメ、と断られていた、が後でその場に戻ってみると防空壕のなかの人たちは全員死んでいたそうだ。「ちいさなおうち」の旦那様と奥様も、小さなおうちの庭に旦那様が自ら掘った比較的大きな防空壕の中で、亡くなっている。

ちいさいおうち 中島京子 (1)Doolitle Raid

「ちいさいおうち」by 中島京子。小説ですがお勧めです。
多分ほかの読者とは全然違う読み方をしていると自分で感じていますが、この小説には昭和の戦争の10年あまりの暮らしが実に淡々と書かれています。「永遠のゼロ」のような感動はありませんが、ユーモアがあって何度か声に出して笑ってしまいました。この視点で書いてくださった中島京子さんに「感謝、そして脱帽」です。拡散希望です。書かれているのは東京のちいさなおうちでのごくありふれた非常にリアリティーのある淡々とした日常なのですが、その日常の中に歴史がきっちり書かれているのです。
まず感心したのはDoolitle Raid つまり東京初空襲が詳しく書き込まれていることです。
参照:Tel Quel Japon過去記事 & Doolitle Raid:
また1943年7月に東京府と東京市が一緒になって東京都が誕生した(P.229)ことも書き込まれていました。恥ずかしいはなしですが、昭和18年まで東京が府だったとは知りませんでした。
書店で出会うまでこの作品のことを全く知らなかったのですが、これは直木賞受賞作で山田洋次監督による映画化も決定しているようです。
・・・・・(書き込まれた歴史に関して、つづく)・・・・・

・・・・・追記:2012年12月10日・・・・・
参照:東京空襲
参照:戦争末期の本土空爆
こういう視点で撮影されたfilmを見たのは初めてだ。
空爆中の米人パイロットの視点と、日本人の日常の破綻が同じフィルムに内蔵されている。
・・・・・
この物語はちいさなおうちの女中さんの回想記が大半を占めるので、歴史解釈は一切なく従って何の偏見もない。戦争批判や自虐史観が排除され、これまでの、たとえば「少年H」のように、小賢しくないところが最大の魅力だ。学歴はないが並みの学者より体も頭もてきぱきと回転し、あらゆる意味で政治的立場に立つ必要がない。従って個人的回想でありながら歴史を日常生活の中に極めて正しく組み込み記述することができるわけだ。
上にB29による空爆のfilmを置いたが、ちいさなおうちの主である夫と妻はこの空爆で命を落とす。何も知らないで女中のタキさんは山形で疎開児童のお世話をしている。知るのはずっと後なのだ。