TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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日米諒解案 (3) 未完

少し視点を変えて日米開戦前をみてみよう。
ゾルゲ事件:ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている。逮捕開始は1941年9月。
Spy Sorge (スパイゾルゲ) 1/10 & 2/10 & 3/10 & 4/10 & 5/10 & 6/10 & 7/10 & 8/10 & 9/10 & 10/10
西園寺公一、牛場友彦、田中慎次郎,石井花子等がFilmのなかで顔出しインタヴューに応じていたのには驚いた。
ゾルゲも尾崎も目的を達成したのだ。尾崎は国家の中枢に取り入って北進論を退け南進を決定することによって、日米戦争を勃発させることに成功し、ゾルゲはその情報を提供することによって対独戦の敗北からソ連を救い出したのだ。日本国内では北進論者の松岡が排除され、南進が決定、対米戦争に取り込まれていく。
参照:Kinkazu Saionji & 西園寺公一
参照:Eugen Ott (ambassador) & ゾルゲ諜報団
参照:Statement Handed by the Ambassador in Japan (Grew) to Mr. Tomohiko Ushiba, Private Secretary of the Japanese Prime Minister (Prince Konoye) [64], 6 July 1941:Grewから牛場友彦に手渡されたもので、まさか対ソ戦に突入するのではあるまいな、そうでないという確証を近衛自身から合衆国大統領に伝えて安心させられよ、と言う内容。Grewは松岡でなく牛場に渡している。理由はよくわかる。外務大臣松岡はすでに嫌われ者で蚊帳の外に置かれているからだ。スターリンが知りたがっていたこと、ゾルゲが知りたがっていたことを、何故ルーズベルトが、日米交渉の真っ最中にこれほど異様に気にかけるのか?ルーズベルトの向こうにもゾルゲのようなソ連のスパイがいたからだ。

いま少し視点を変えて日米開戦前をみてみよう。
Harry Dexter White 1:Tel Quelの過去記事にさんざん書いたことがここでは総合的にまとめられている。

White used his position in the Treasury Department to develop a hostile U.S. policy toward Japan. The reason was to distract Japan from their plans to attack the Soviet Union and draw the U.S. into the war as an ally with the Soviet Union.

真の敵であるロシアを攻めさせず、いつの間にか日本を対アメリカ攻撃に走らせる、つまりゾルゲや尾崎達とWhite達米国に巣くったスパイとは、同一目的で動いていたのだ。日本が見据えていた敵は常にロシアであった、にもかかわらず日英米中独国に巣食ったロシアのスパイ達が仕組んだ日米交渉という餌についふらふらと食いついたがために、はっと気がつくと罠にはまって、思いもよらなかった米国(真珠湾)に爆撃機を飛ばせていた。比喩的にいうと、穴を掘ったのはゾルゲ、最終的に穴に突き落としたのはWhiteだと言えよう。
(追記:2011年10月20日)
そもそもの餌である非公式の,出所を転倒させた,道に投げ出されたのも同然の日米諒解案は、箱に入れられ包装されあたかも両国で正式に諒解されたかのように装って帰国した松岡に提出された。「本提案は米国の悪意七分善意三分」と初見で胡散臭い餌であることを見抜いた松岡はさすが大日本帝国の外交官である。すかさず矛盾点を指摘していく。
・・・・・・・

参照:Harry Dexter White 2 & Harry Dexter White 3 & The Silvermaster spy ring:
参照:Harry Dexter white : Tel Quel Japon過去記事 : Harry Dexter White :
アジアの解放、安定した大東亜建設のために八紘一宇の理念の下、まず満州国を独立させた日本が結果として戦った戦争は大東亜戦争であった筈だ。その大日本帝国が何故広い太平洋でアメリカと戦争を始めてしまったのか。日本人はその問いを忘れてしまっている。その意思も当初は全くなかったのに、何ゆえに真珠湾に向かって攻撃の口火を切ったのか、日米交渉というペテンの餌に釣られて、追い詰められパニックに陥った鼠として何故大猫に噛み付いたのか?日本人はその問いを忘れてしまっている。
やれ松岡が諒解案を握りつぶしたから、やれハルノートをたたきつけられたから。松岡の構想は早々と無視され失脚させられているし、何度も言うがハルノートは、国家がヒステリーを起こすような性質のものではない。Strictly confidential, tentative and without commitmentと明記されている。一説にはこの一行がが何者かによって消されていたという説もある。たたきつけられて怒り心頭に達したと信じておられる方は、おそらく消されたものにしか接しておられないに違いない。日米交渉という餌は最初から最後まで悪意ある虚偽の罠だらけなのだ。

日本人やアメリカ人にそれを気づかせてくれたのはずっとあと、吉川光貞やCharles A. Willoughbyの働きがなければ、あるいはその働きを検証しない限りは、催眠術のような日米交渉の実態は理解できないだろう。
参照:Tel Quel Japon 過去記事:吉川光貞
参照:Tel Quel Japon 過去記事:Charles A. Willoughby:
そして考えてみれば、転向した元スパイだったElizabeth BentleyやWhittaker Chambersの告発がなければ、全体像は全く解明できず、ああでもない、こうでもないと、今よりももっと馬鹿げた推測が蔓延り、歴史の解釈は深い深い出口のないトンネルに進み続けて行っただろう。ただ日米開戦に関するあらゆる文章の中で、Elizabeth BentleyやWhittaker Chambersを検証した上でのものが、日本にはあまりにも少ないのは残念に思う。
参照:Tel Quel Japon 過去記事:Elizabeth Bentley
参照:Tel Quel Japon 過去記事:Whittaker Chambers
・・・・・・・

今日Whittaker Chambersという人物にスポットを当てた番組をまた見つけた。一時間が二本、二時間が一本、全部で4時間。私は時間の都合で今日は一時間を一本しか見ていないが、今までよりもWhittaker Chambersを広角的に見られるようになった。
参照:Whittaker Chambers: A Biography カスタマーレビュー

///////////追記:2011年10月25日/////////////
1941年7月に創設されたOSSの前身COIによって既に、戦後日本の占領プランがねられていたことが分かっている。日米交渉などと他国の善意や信義に縋り付いて交渉しているつもりの開戦回避努力など、今から見ればだが、聞いて呆れる、たしかに日本は「よしよしとあやされている赤ん坊である」。いつまでも、いつまでも「ハルノートを叩きつけられた」ので堪忍袋の緒が切れた、などという次元で思考している場合ではない。
ハルノートで挑発された訳ではなく、そのまえからずっと挑発され続けていた。(軍艦の配備から見て、そしてアメリカの日本に対する利敵行為から見て、パールハーバー以前にすでに戦闘状態であったので、宣戦布告の必要はない、というたしかパール判事の発言があったと記憶している)ルーズベルトと近衞の会談で、100%の譲歩をしても(ハルノートをのんだとしても)、戦争回避の可能性はゼロ。アメリカは先の先を読んで、戦後世界支配まで考えている。(アメリカとひと括りにしてもいいかどうかはわからないけれども)。ハルノートは単に戦争準備完了のお知らせ、さあ、いらっしゃいという暗号であったと見たほうが良い。
参照:THE SHOWDOWN WITH JAPAN August-December 1941
参照: U.S. ARMY OVERSEAS DEPLOYMENT, 17 OCTOBER 1941
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日米諒解案 (2)

ところが、これはアメリカ政府の提案ではなかったのである。それなのに、首相ばかりでなく連絡会議の全員、いな外務当局までアメリカ政府の公式提案だと錯覚し、野村・ハル会談を、日米諒解案をファイナライズするための本格的外交交渉であると信じ込んでしまった。ここに重大な錯誤があったのだが、このような事態となったのも野村大使がミスリードした結果にほかならない。
それに、野村はハルが最も重視した四原則については一言も報告していないので、満州事変以来の日本の国策を全面的に放棄することが、日米諒解案の交渉に入る絶対的条件になっている事実が、日本政府には通じていなかったのである。(「日本外交史ー23 日米交渉 P.84 )
なお、ウォーカー長官のハル宛のメモには「松岡は罷免されることを恐れて不本意ながら諒解案による交渉に同意したが、まもなく失脚しよう。また野村が中立条約を提示したらハルに拒否してくれという希望を野村から申し入れてきた」と記してある。(”Foreign Relations Far East". vol.Ⅳ p.180) (「日本外交史ー23 日米交渉 P.116)

追記:2011年10月16日
上記の中立条約であるが、これは他のどの資料を調べても記載がない。歪曲のために無視されたものだ。驚くなかれ、野村自身がハルに拒否してくれと申し出ている中立条約とは、松岡が野村に訓令した「日米中立条約」のことである。(上記と同書 p.112)
「世界的非常時の折から、このようなこともやってみてはどうか。試しにやるのだから乗ってくればよし、乗ってこなければそれでよし、応じてくれれば結構ではないか」と言って(松岡は)自説を固執した。
この辺りの松岡外交を詳細に検証すると、彼を対米強硬派だと記することは、あからさまな歴史歪曲のための捏造であることが誰にでもわかる。アメリカの参戦さえ避けることが出来れば、最大の暗雲をふきとばすことができるのだ。そもそも三国同盟とはソ連の横暴に睨みを利かし、敵対行為をするアメリカ・イギリスを牽制するための条約である。
日米諒解案のような内容は一貫して、アメリカの望むところであって、日本から持ちかけるような内容ではない。それをこちらから持ちかけ、アメリカからの申し出のように細工した。帰国して最初に諒解案らしきものを見せられた松岡は、それが英文で書かれていないことに気づくのだ。繰り返す催促の中で、野村はしぶしぶ後で作成したものをようやく届ける始末だ。スパイとは言わないまでも、野村は完全な利敵行為者である。しかし戦後に教育された史観では、平和主義者の野村が、対米開戦をさけようと、努力したのに、松岡が握りつぶしたということになっている。否、当時から諜報活動があって実際松岡は罷免されたのであるから、野村以外にもそういう風評工作をした水面下の大きな組織が、存在したとも考えることが可能だ。
民間の和平交渉で回避できるような戦争なら、外交など不要だ。日本に必要なのはなんとしても「日米中立条約」であり、民間でも交渉するならそこからスタートすべきであり、繰り返すが塩をかけられたナメクジのような、敗戦交渉のような、相手が要求する前にこちらから相手の要求を想像して書きたてた、しかも実現性の乏しい、相手の時間稼ぎの、このような偽文書からはじめてはならない。
参照:残念なことに日本の受験生はこういう風に歴史を学ぶ。
・・・・・・・

1941年
2月11日:野村大使ワシントン着任
4月13日:日ソ中立条約調印
4月16日:野村大使より日米諒解案接到ス
4月22日:松岡外相帰国
5月12日:我方対案ヲ提示ス
6月21日:米政府対案ヲ提示ス
6月22日:独ソ開戦
7月2日:御前会議
7月15日:我方対案ヲ提示ス
7月16日:第二次近衛内閣総辞職
7月17日:第三次近衛内閣成立
(追記:2011年10月20日 日米交渉詳細年表)

ORAL STATEMENT June 21,1941の文章に記載されているが、これは5月30日に野村駐米大使に伝えられたもので、話し合いの上松岡外相がハミルトン東亜局長に(おそらく抗議のために)返却したものの写しである。
・・(略)Unfortunately, accumulating evidence reaches this Government from sources all over the world, including reports from sources which over many years have demonstrated sincere good will toward Japan, that some Japanese leaders in influential official positions are difinitely committed to a course which calls for support of Nazi Germany and its policies of conquest and that・・・(略)
明らかな内政干渉である。三国同盟に対する批判であるが、ここに読み取れるのは、松岡という外相への攻撃であり本心としての罷免要求である。そしてこのときまだ敗戦もしていない日本が、開戦もしていない日本が、敗戦後の番頭さん根性さながらに、唯々諾々と内閣解散までして交渉力のある松岡を、米国にとって参戦に目障りな松岡を(押し競饅頭で)罷免するのである。
・・・・・・・・

野村大使は7・15日本案を受け取っていたのに、同案をアメリカに提示せず、20日になって、新内閣の交渉方針を示してもらいたいと請訓して、いたく近衛を驚かせるしまつだった。近衛は7・15案を黙って握りつぶされたのだから少なからず失望したのである。(「日本外交史」-23、P.174、P.175)
参照:野村吉三郎文書研究 :これは戦後のものであるが、戦前戦後を問わず、日本よりも米国に理解者を求めようとしていたように思える。強いものに逆らえないのは世の常であるとしても、親米派と言わずに何と言おうか。
・・・・・・

日米諒解案は、どの辺が日米諒解なのだろう。言語誘導にも思える。どの辺が日米交渉なのだろうか?交渉というより叩頭である。これを日米交渉と呼ぶなら、戦う以前から敗北を想定した、せめてお情けをという敗戦交渉に他ならない。それほど戦争を回避したかった、という魂の高貴さ?を讃え、平和の国日本では、こういった敗戦への協力・先取りさえ(どう考えても利敵行為・発想なのだが)、善とされるのだ。戦争は悪であった、しかも日本の戦争のみが悪であったという認識で、日本の歴史教育は固まってしまっている。
「自分は利用されたのだ。自分は常に戦争を避けようとした。自分は常に平和を求めてきた。戦争は嫌だったが、自分にはどうにも出来なかった。あいつが悪いのだ。」A級戦犯は誰一人、こういう最も憎悪すべき畜生のような発言をしなかった。それは日本人の持つ、大和魂の最低限の美学だからだ。自分の行為に責任感と信念があるからこそだ。

・・・・追記:2011年10月17日・・・・
日米諒解案を含め日米交渉のすべてが、アメリカ参戦のための実際は英米の罠だったとも読み取れる。英米が互いにコンタクトを取りながら日本を真珠湾に向かって絡めている。Tel Quel Japon過去記事:William ”Intrepid ”Stephensonがこの交渉の裏で動いたことは過去記事にも書いている。
野村や民間人がそもそも単独で発想・実行できる行為ではない。利敵行為に同意する隠れた集合体が国内に存在したのだろう。それは英米にもたくさん存在したコミンテルンのスパイたちだったのか、はたまた...。
ルーズベルトをこの視点で見ると、ルーズベルトと親しかったと言う野村の超親米ぶり、それゆえの騙されぶりがよくわかる。野村には魑魅魍魎の国際政治を解さない、他国の信義に縋り付こうとするよほど大きなバックがあったのだろう。気の小さい野村駐米大使が非常識にも非常時に辞任を要求する背景が、その意味がなんだか見えてくるような気もする。不思議にもほとんどお咎めなしの、俗に言われる重大な宣戦布告文書ののんびりした交付遅延も、ここに現れたものと同種の利敵行為だともし解すると、ようやく納得もいく。

日米諒解案 (1)

日米諒解案
開戦回避交渉にしても終戦交渉にしても、近衛の日本国憲法と同じで、本人はそのつもりで行動していても、正規のものでない限り、効力を持ち得ない。どころか、時間稼ぎに利用される骨折り損「交渉」である場合の方が多い。それはまた後世、歴史の筋書き捏造に利用される。(ルーズベルトに代わって朝河貫一が草案した日本国天皇に対する書簡などを、日米諒解案は思い起こさせる。朝河とルーズベルトでは、当然根本の発想が違う。日米諒解案にはハルの4原則がはいっていない、満州国承認など絵に描いたもち。朝河が草案したものが天皇に届けられていれば、確かに戦争は起こらなかっただろう。しかし朝河は米国大統領でもなんでもない。)
近現代日本史にはそういう活きなかった開戦回避交渉や終戦交渉はずらりと並んでいるが、実際の公式外交資料をもって検討されたものはほとんどない。空想的私見を入れたものフィクションとほぼ同列である。
参照:開戦回避交渉

・・・・・追記:2011年10月13日・・・・・
日本外交史 全33巻 別巻5冊 という凄いシリーズ本の存在を見つけた。現在3冊手元においている。今日はそのうちの一冊「日本外交史 23 日米交渉 加瀬俊一」(発行 鹿島研究所出版会 昭和45年11月20日刊)を手にしている。資料の塊である。
第一期 松岡外務大臣の時代 第二期 豊田外務大臣の時代 第三期 東郷外務大臣の時代 からなり章としては10章に分けられている。第一期は 第一章 松岡外相と野村大使 第二章 交渉の発端 第三章 日米諒解案の提示 第四章 日米諒解案の紛糾 第五章 日米諒解案の停滞 第六章 松岡外相の辞任 からなる。その間の日米両文の資料も含んでいる。引用したいが全部引用するのは不可能な大書なので、各自手にとって読解いただきたい。松岡が癇癪を起こして日米諒解案を握りつぶしたという通俗的歴史認識は、事実の歪曲であることがよくわかるはずだ。
地位にふさわしい交渉能力のない人間は時に利敵行為に走る場合がある。相手の機嫌を取って自分の置かれた苦境からとりあえずの脱出を無意識に計ろうとする。大臣の挿げ替えは取り返しのつかない失策で、駐米大使をこそ更迭すべきだったのだ。無能な大使に助っ人をおくってまでその人物をその場にとどめたこと。北進を主張する松岡を皆で押し競饅頭をするように追い落としたこと、誰かのご機嫌を取るためにそういう空気が醸造されていたのだろう。アメリカの文書を読めば、南進こそが開戦の直接的原因だと理解できるはずだ。
その後坂を転がるように開戦へとまっしぐら:4回の御前会議
・・・・・・

今日新しいサイトをBookmarkした。その資料の一例だけ出しておく。[昭和16年]12月1日 牧野伸顕関係文書 書翰の部 659-41
国立国会図書館 吉田茂書翰 牧野伸顕宛
見る人がみれば、非常に意味深い、いくらでも汲みだせる重要資料である。
・・・・・・

追記:2011年11月14日
最初から日米交渉などというものは、催眠術に過ぎなかった。それはこれだけを見てもわかる。敵国に加担している、これはすでに攻撃である。What was the Lend-Lease Act?

The Lend-Lease program began in March 1941, nine months before the US entered the war in December of 1941.

こちらもご覧ください。
American Financial Support for the War Before 1941

Japan's Withdrawal from the League of Nations

The Imperial Rescript Relating to Withdrawal from the League of Nations Proclaimed on March 27, 1933.
国際連盟正式脱退届出。実際の脱退の2年前に提出する義務があった。正式署名者の名前も頭に叩き込んでほしい。
圧倒的多数で、満州国が否認された時、あなただったらこの状況でどんな演説をしたのだろうか、考えてみてほしい。だんまりを決め込んで不機嫌に黙ってしまうか、「御もっともでございます」といって泣き崩れるか。一度仮想演説を試されてみてはいかが?
League of Nations Chronology
1933 March 27 Japan gives notice of its withdrawal from the League of Nations.
1935 March 27 Japan ceases to be a Member of the League.
1933 February などという記述はない。Withdrawal from the hallをイメージ操作でWithdrawal from the League of Nations と勘違いさせられてはいませんか?あいまいな表現を使い、あえて混乱させるような報道記述もある。歴史記述ともなればその工作は露骨だ。
参照:満州国建国と国際連盟脱退
参照:国際連盟脱退をめぐる新聞論調
参照:松岡洋右 ジュネーブ決別の際のメッセージ
参照:League of Nations
参照:Stimson Doctrine
参照:ITO Miyoji's Movement
参照:The League of Nations vs. Japan

・・・・・2011年10月10日・・・・・
資料:連盟総会における日本代表の引揚げその他対策に関する閣議決定について
資料:国際連盟脱退ニ関スル措置
資料:国際聯盟規約
日本は第11条をとりあげ、平和維持に関する防止的措置の範囲で討論し、リットン報告書を否認し満州国を承認せしめるべく努力したのであるが、支那側は、第15条の聯盟機関による調停及び審査を主張し、総会においてリットン報告書を承認せしむることによって、第16条の制裁条項に持ち込もうと計っていた。
(松岡洋右 上巻 豊田穣著 新潮社刊 P.291)
・・・・・・
参照:V.K. Wellington Koo 顧維鈞 wikipedia
参照:顧維鈞演説のウソと国際連盟決議の事実
参照:顧維鈞と中国
参照:You Tube: DR. V. K WELLINGTON KOO
参照:World Charter Signed (1945) Wellington Koo
参照:MILESTONES IN UNITED NATIONS HISTORY
参照:Tel Quel japon過去記事

野村吉三郎の辞職願い

野村吉三郎: wikipedia:

Ambassador Nomura Offering his Resignation, MAGIC, From: Washington (Nomura) To: Tokyo October 18, 1941 CA
Ambassador Nomura Again Asks to Resign, MAGIC, From: Washington (Nomura) To: Tokyo October 22, 1941 Purple (CA)
Telegram from Tokyo Rejecting Nomura's Resignation, MAGIC, From: Tokyo To: Washington 23 October 1941 (Purple---CA) Unnumbered

こう言う資料があるとは想像だにしなかった。時期が時期だけに職場放棄をする人物がいたとは思えない。板ばさみと言うよりも、むしろ怒りがあったのだろう。
今日はとりあえず、その電報をお見せしよう。Purple, Magicなどの「つつぬけ」を意味する懐かしい言葉が見える。
上記Purple電報3通分の内容

2009年11月28日:追記
Nomura & Kurusu
何が有ったのかと不思議に思えるくらいの笑顔をみせる野村・来栖のダブル駐米大使。野村駐米大使に日本の事情を伝え、また大使をバックアップするために急遽アメリカに駆けつけた来栖三郎。その辺りの事情を説明するための電報も2通見つかった。
Telegram from Tokyo to the Japanese Embassy in Washington Advising that Kurusu Will be Joining the Delegation, MAGIC, From: Tokyo To: Washington November 4, 1941 Purple (CA) #730
Telegram from Tokyo to the Japanese Embassy in Washington Explaining the Reasons for Dispatching Ambassador Kurusu, MAGIC, From: Tokyo To: Washington November 6, 1941 Purple (CA) (Urgent) #739
参照:Tokyoから野村大使に来栖三郎派遣に関して2通の電報:
参照:#730にRe my #725 とあるので、#725も参照してみることにする。#725
ウワァー大変なものがでてきた。(2009年11月29日追記: 日本の書物に一部がしばしば引用される電報だ。これと前回記事にした東郷茂徳の演説の一部が相俟って、東郷茂徳は、平和主義者だと歴史的に認定されている。「死中に活を求める」と言えば聞こえはいいが、結果論で言えば、ハル側の「時間稼ぎ」の作戦に引っ掛かっているだけだ。真珠湾攻撃が1,2ヶ月早ければ、、それこそ「早期講和」の可能性も、はるかに現実味を帯びただろう。しかしまあ、尾崎秀美を戦争回避のために獅子奮迅の働きをした平和主義者だという歴史認識まで堂々とあるのだから、東郷茂徳の認識もそれの同一線上にあるのだろう。今回は一部ではなく全文をお見せする。この電報を受け取った野村吉三郎側から、続きをお読みいただきたい→)まさに勝ち目のないギャンブルだ。これだけプレッシャーをかけられては、野村大使一人では、神経が持たないだろう。二人でも無理だ。乙案提出の日も、ハル・ノート受け取りの日も、ハル・ノートへの回答を持参した真珠湾の当日でさへ、緊張感なく、常にヘラヘラ笑っていたのは、ひょっとしたら、既に砂に頭を突っ込んでしまっていたからかも知れない。
これらの電報は誰から、野村大使に届けられたのか、誰宛に野村大使は辞職を願い出たのか、また背景となる日本の政治的混乱、内閣の入れ替えなどにも触れながら、時間のあるときに少し電報の背景・内容にも触れてみたいと思っている。

2009年11月30日:追記
資料:Message delivered by Ambassador Nomura to Secretary of State Hull 1420, 7 Dec 1941 ハル・ノートへの回答(宣戦布告とされているメッセージ)及びそれに対してHullが吐き捨てた言葉。

以上の記事は2009年11月28日記入
2011年10月7日:追記
緊張の米國に野村大使は語る
現実を見て覚悟の上の正直な発言。少なくも、アメリカの参戦は目の前にすでにぶら下がっていた。なんだか蛇ににらまれた蛙状態だった日本が想像できる発言である。
日米開戦のウラ 1/2 & 日米開戦のウラ 2/2
本来日本人が作らなければならないFilmなのに、日本人の過半数はまだこの事実を事実と認めない。この過半数の日本人は歴史を書き換えたくないのだ。秦氏にまずお見せしたい。それにしても1/2の証言者の顔を見て驚いた。実行者本人であり、その正体はソ連のスパイであったあの男だ。スターリンにもルーズベルトにも絶賛される行為であるので、堂々としたものだ。別に日本サイドに立って証言したものではない。本人の口から出ている言葉である。誰であろうと、否定も疑問を挟むことも一切出来まい。
参照:Tel Quel Japon過去記事

テーマ:軍事・平和 - ジャンル:政治・経済

Mr.Matsuoka's Speech in Geneva in 1932

Geneva1932-2.jpg

Here is Mr.Matsuoka's speech in Geneva December 8, 1932.
緑色の部分をクリックしてください。Media Voice Japanに飛びます

Mr.Matsuoka's Speech 日本語全文にリンクしました

" I ask you to use a little imagination. How would you have acted if you had been Japan? " (Mr.Matsuoka)

" In a word, Japan is today faced with an appalling situation throughout Eastern Asia, and fighting single-handed to save the Far East-not to start war in the Far East." (Mr.Matsuoka)

"Can you not at least suspect-unless you presume that we all went mad-that there must have been some good reason for the sixty-five million poeple to unite as one man in backing up these actions? (Mr.Matsuoka)

"A few years afterwards came the Russo-Japanese War. The greatest cause of this war was the secret alliance treaty concluded between China and Russia. We learned of it at the Washington Conference, to our great surprise. As we all know now, they very skilfully hid it from us and we didn't know that secret alliance treaty against Japan, under the terms of which Russia was offered every facility to make her way down to the southern extremity of Manchuria. Again, I am afraid, there would have been no Manchuria, perhaps no China, today, if Japan had not had the courage and strength to fight Russia." (Mr.Matsuoka)

演説が終わると、一斉に拍手が起こった...
まず、フランス代表ボンクール陸相が握手を求め、ついで、英国代表サイモン外相が、そして多数の人々が次々に握手を求め、松岡の演説を”ワンダフル”と激賞してくれた。なかでも、英国陸相ヘールシャム卿は、松岡に抱きつき
「ワンダフル!30年間の私の外交生活の中で、これほど感動的な演説を聞いたのは初めてだ」と大声で叫んだ。
すると、ボンクールも負けじと
「ミスター・マツオカの今日の演説はベルサイユ会議におけるクレマンソー首相の”猛虎演説”にも比すべき、歴史的大雄弁である」と激賞した。
(「松岡洋右 悲劇の外交官(上)」豊田穣著 P.319-320)
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Also I will let you listen to another speech of Mr. Matsuoka.
The SAYONARA speech made in San Francisco, April 12, 1933.
Please click here
................

You started your relations with my country eighty years ago-when Commodore Perry came to Japan and summoned us to open the doors of our hermit kingdom-with good will for and faith and vision in Japan.
Will you still persist in that?
Has Japan done anything to disappoint you?(Mr.Matsuoka)

Compared with China, my country is a small one. Compared with the United States, it is not rich. But I am proud to say it is not poor in a spiritual sense.
In spite of our limited resources, we are going ahead with courage and confidence in this period of world-wide depression.(Mr.Matsuoka)

Let the banner of the Rising Sun and that of the Stars and Stripes be forever the emblems of peace on the Pacific, with the nations under them marching in confidence and friendship towards the common goal of peace and human happiness. (Mr.Matsuoka)

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以上は2006年8月26日
以下は追記:2011年10月3日
Special League Assembly Session 8 december 1932
この本を全部読んだわけではないが、この時代の日本の戦争と外交について英米人が読める唯一の資料らしい。日本人にしてもそうだろう。1932年の「十字架上のイエス」の演説と1933年の国際連盟脱退演説とされる(洗脳されないでいただきたい、これは満州国非承認に対する抗議演説である)ものと、1933年サンフランシスコにおける「Sayonara演説」との混乱・不整理が昭和史の中に敢えて埋め込まれている。また唯一繰り返し報道される国際連盟会場退場シーンは田中氏のおっしゃるOSS「日本占領計画」のひとつのクライマックスで、東京裁判において大きなポイントとなってきている。重要であるからこそ松岡の演説は曲解・隠蔽されてきたのである松岡の演説は前にも書いたが硫黄島の市丸少将の見解に引き継がれた視点である。1951年のマッカーサーの発言に20年近く先んずる視点である。
War and Diplomacy in the Japanese Empire by Tatsuji Takeuchi No.1 & No.2 :
Manchuria 1931-1932 Chronology:
A Japanese Film on the Lytton Commission in 1932 65分無声 価値あり 必見
Special Session of the Assembly Convened in Virtue of Article 15 of the Covenant at the Request of the Chinese Government :Geneva, March 3 - December 9, 1932

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Why We Fight : OWI プロパガンダ映画 1942
・・・・・追記:2011年12月11日・・・・・
Why We Fight : 大東亜聖戦の歌:

The most famous & impressive scene

1933,February, in Geneva
Mr. Matsuoka

このFILMの部分の日本語訳を以下に付す。
「日本の政策がその根本において、極東平和の確立と、全世界の平和の招来に貢献せんとの純正なる希望によって設定されたるものなることは、先に周知のところである。しかしながら、日本は総会によって採択せられたる報告書を受諾することは不可能であることを発見した」(It is a matter of common knowledge that Japan's policy is fundamentally inspired by the genuine desire to guarantee peace in the Far East and to contribute to the maintenance of peace throughout the world. Japan, however, finds it impossible to accept the report adopted by the assembly,...)
NEWSはここで終わっているが実際はあまり知られていない以下の発言が続いている。

日本政府が人類の福祉に貢献し世界平和に寄与する事業のために誠意を持ってこれから諸国と提携しー不幸なる報告書採択の結果による諸事情の許す範囲内において、可能なる限り、諸国との提携を採る政策を今後ともに固執するであろうことは、余がこれを付言するまでもない所である("The Japanese government will, however, make their utmost efforts for the establishment of peace in the Far East and the maintenance and strengthening of cordial relations with other powers.I need hardly add that the Japanese government will persist in their desire to contribute to human welfare, and will continue their policy of co-operating in all sincerity in the work dedicated to world peace,")」
赤字をよくお読みいただきたい。席を蹴って喧嘩腰に退出したわけでは決してないのだ。
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浅間丸が横浜に入港する直前、松岡は船上から日本国民に対して次のようなメッセージを送っている。(抜粋)

日本各地から帰朝に対する熱烈なる歓迎電報を受けて感謝しているが、実はかかる熱烈なる歓迎を受くる資格なく、かかる歓迎を受ければ受けるほど、自分の微力を痛感するのみである。...
余は微力、国民の期待に十分副わざりしを恥ずるのみならず、せんずるところ、日本国民として、陛下および国家に負うその本文を最善を尽くして、果たそうとしたのにすぎず、別に国民の感謝に値することでもないと思う。余を歓迎する趣旨は感謝に堪えぬが、非常時日本には、ただその分を尽くさんとした余を歓迎する余裕はない筈と思う。...
(非常時に直面している国を思い、熱狂的歓迎に恥じ入っている。心を引き締めなければならない。こんなに浮かれた状態では、連盟脱退の資格があったのかどうかさへ、疑わざるを得ない、と自宅の歓迎会の席上言っている。言うまでもなく連盟脱退は心の進むところでなく、やむを得ない切羽詰った国家の選択であったのだ)
参照:
「松岡洋右 悲劇の外交官(下)」(豊田穣著)P.77-79
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この演説を資料では「さよならスピーチ」と言われているが、それは先に載せたサンフランシスコでラジオ向けにした演説で最後に言ったことば「SAYONARA」が、混同された結果、そのまま今日に至ったものと思われる。
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///2009年7月23日///
松岡擁護論にトラックバックさせていただきました。

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以上は2006年8月26日
以下追記:2011年10月3日 国際連盟
資料1 & 資料2 
List of Assembly Delegates and Substitutes - (M)
Chronology 1933
Chronology 1932:
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Tel Quel Japon過去記事
1931年9月19日朝
The Mukden Incident:柳条湖事件
New York City,March,1933:
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三国同盟
Ina.Fr Films
三国同盟祝賀:万歳といっているのは駐日ドイツ大使オットー、奥さんをゾルゲに寝取られていた男だ。  
三国同盟締結:サインしているのは来栖、後に野村大使の助っ人として渡米し、当時日本はダブル大使だった。来栖がアメリカで敵対視されたのは、この条約の調印者だったからだと言われている。
追記:2011年10月7日 You Tube
日独枢軸・松岡洋右外相の訪独を大歓迎するベルリン市民

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

正論 2009年4月号 田中英道氏 論文

GHQの占領政策を”お膳立て”した容共工作集団「OSS」
ー 戦後の一方的な戦争責任糾弾も反戦平和のイデオロギーも出発点はここにあった。 -

から以下引用,紹介します。

〇日本に憲法を押し付けた時の米国は戦後の米国とは異なり、異常な状態にあったことをわすれてはならない。米国には占領政策を進めたGHQより前にOSSという諜報組織があった。

〇戦争責任を軍部に帰する論理も,実はここ十数年、米国公文書館で公表された新しいOSSの資料で明るみにされている。戦争責任をめぐり,軍部を糾弾してきたのは左翼だけではなく保守論壇でもなされることがある。(なされることがある、ではなく、なされる、としたほうがより正しい)しかしそれは戦争中の米国左翼のOSSがつくったプロパガンダであって、その骨格はOSSによって形作られたのである。

〇OSSにこのような共産主義者を入れた事は,いかにこの時代、彼らに対するアレルギーがなかったかを物語るが、...

〇天皇を「象徴」として残し、平和を願う天皇と、戦争に追い込む軍部と対立させる事も彼らのねらうところであった。

〇小出はOSSの方針通り、日本国民と軍部との離反を工作し、天皇を批判せず、その反軍部的な発言を利用しようと考えた。...これはOSSの天皇を象徴として戦後残す方針に沿っていた。

〇秩父宮殿下が和平派として登場し、軍部と対立して監禁されたと言うものだった。...彼らが和平派で軍部と対立している、ということを宣伝し、国民が天皇への忠義を軍部批判に向けさせようとしたのである。...たしかに秩父宮がもともと米英の大使と懇意であり、また天皇と緊張関係にあったことを知って、このようなもっともらしく殿下が監禁されたと言う事件を作り上げていたのである。(監禁・軟禁されない限り、軍部の独走と言うのはおかしい。やはりあったかと言う創作である。)

〇米陸軍のCICは直ちにソウルで野坂参三と会い、東京行きを許可している。...同じイデオロギーの同志であるが如く,今後の野坂の政治予定、政治目標を記しているのである。

〇野坂は平壌に来る前モスクワを訪問しており、コミンテルンの指示を仰いでいる事が明らかにされている。そのことを述べないのはそれでは米国の支持を得られないとおもったからだろう。この方針自身が共産党の路線に沿っており、それに米国諜報機関が同調している事に驚かされる。

〇しかし日本にとっては,米国のGHQの政策も、東京裁判の帰趨も、天皇を象徴とする戦後憲法の制定も、すべてひとつの共産主義路線に影響されたOSSのお膳立てによって占領体制が作られていったことを忘れてはならない。

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詳しくは正論2009年4月号の論文を読まれる事をお勧めする。(今回はほんの僅かな引用のみなので、読むその前にOSSについて自分なりの徹底調査をしてみてください)
こびりつき派の思考回路の基礎は、この辺のプロパガンダで製造されていると見ていい。王手飛車のような、日米合作の完璧なプロパガンダだ。

参照:正論 2008年7月号 田中英道氏 論文:
興味のある方は、岡田文吉、鹿地亘、ジョー小出(鵜飼信道)、あたりを検証されるのもいいかもしれない。

・・・・・追記:2011年1月15日・・・・・
参照:OSSの関するTel Quel Japon 過去記事
William " Intrepid" Stephenson
Allen Dulles 2: Operation Paperclilp

・・・・・追記:2011年1月16日・・・・・
Tel Quel Japon 過去記事
しかし歴史はそのように記述され、それを踏まえて新しい日本国はスタートしてしまった...そしてこの国は今もそのFictionの上をひたすら走りつづけている。
Tel Quel Japon 過去記事
それを乗り超えるためには、多くの優れた勇気のある覚醒した真の日本人と100年の歳月が必要だろう...それを乗り超えるためには、多くの優れた勇気のある覚醒した真の日本人と100年の歳月が必要だろう。

     ・・・・・・・・・・
・・・・・追記:2011年1月17日・・・・・
     ・・・・・・・・・・

ルーズベルト大統領は1941年7月、OCI(情報調整局)を設立。日本との戦争がはじまると翌年、そこからOSSを分離し、敵国に対し諜報を行う諜報機関とした。そこにドノヴァンを移す一方、OWI(Office of War Information)を立ち上げ情報局としてそのまま残した。(田中氏論文「正論」2009年4月号より)
天皇の臣民として長時間の過酷な労働を嬉々としてこなし、国民は戦争の駒と成るためにのみ育成・訓練され、天皇のために命を落としたものは死して神になれる。米人の理解の範疇を超える日本人の精神構造を米兵に理解せしめ、かつ、その日本人特有の価値観を(←これが米人による日本理解の限界ということか)戦後の統治にどう活かすか、OWIもOSSも苦心惨憺したのだろう。その苦心の結果が「日本計画」であり、成果が「東京裁判」であり、「日本国憲法」である。最大の成果は思考に自虐的自己否定をこびり付かせてしまった覇気のないに現日本人の群れである。非難することなかれ。天皇への忠義を軍部批判に向けさせられた結果である。
Tel Quel Japon過去記事
かつて西尾幹二先生に賞賛を持って取上げていただいた記事である。で出しに、米国政府が米海軍の士気高揚のために制作したFilmである。ーとかいているが、やはりおかしい。これこそ上記の内容にそった、諜報戦のFilmなのだ。
米国プロパガンダFilm : 敵国ジャップの正体(1)
Released by Office of War Information Bureau of Motion Pictures
グルー氏登場の直前にこの文字がはっきり入っている。
西尾先生も私も、そして多くの日本人が感動した古きよき日本を映し出したFilmである。同じ物が米人の目には「猿の惑星」にしか見えなかったということか?

・・・・・追記:2011年1月20日・・・・・
OWIのメンバーで「日本計画」に大きな影響を与えた「The Chrysanthemum and the Sword(菊と刀)」の作者Ruth Benedict : OWIに於けるRuth Benedictの仕事↓
Benedict also undertook research on Japanese personality and culture, the effect of which cannot be overstated. Near the end of the war, senior military leaders and U.S. President Franklin Delano Roosevelt were convinced the Japanese were "culturally incapable of surrender" and would fight to the last man. Benedict and other OWI anthropologists were asked to study the view of the emperor in Japanese society. The ensuing OWI position papers convinced Roosevelt to leave the emperor out of the conditions of surrender (rather than demanding unconditional surrender as he did of dictators Adolph Hitler and Benito Mussolini).
参照:元サイト
(参照:Margaret Mead & Ruth Benedict

「菊と刀」に関して以下の日本語リンクを参照してください。
No.1No.2No.3
No.1 & No.2 & No.3

・・・・・・追記:2011年2月12日・・・・・・
その他書物から見つけたリンク
OSS DonovanPsychological Operations

・・・・・追記:2011年9月4日・・・・・
田中英道 & 日本計画 & ついに書籍化されました

1518308.png
・・・・・・
参照:加藤哲郎 & 有馬哲夫(tel quel japon 過去記事)

・・・・・追記:2011年9月29日・・・・・
田中英道:二段階革命
田中氏のお話と渡辺氏の相槌の間に、若干の空白(ズレ)があるように思うのは私だけなのだろうか?
差異の指摘ではなく、同調部分の強調で賛意を拡大せしめるというのが、渡辺氏の独特なトークだともいえるのだが。田中氏の主張は論理的にはむしろ村田春樹氏に繋がっていくように思う。
ともあれこの本が渡辺氏をはじめ、多くの著名人の方たちの推薦を得たのは、喜ばしきことであった。一人でも多くの読者にいきわたることを心底願っている。

・・・・・追記:2011年9月30日・・・・・
田中氏の論文がこうして書籍化されたこと、本当に喜ばしいことだと思う。多くの方々に深く深くお読みいただきたい。この本が話題にならないようでは、もう出版には期待できない。(追記:2011年11月13日現在、ほとんど反響がない。正しく読まれなかったのだ。予想通りの読まれ方をされてしまったのだと思う。危惧があったのだ。筆者の田中氏は、その危惧に気づいておられなかった。だからこそ書けたのだが。)今までの書籍の延長上にあるものとしては、読んでいただきたくはない。衝撃を与え覚醒を促すに、充分な内容なのだから、スイッチを入れなおすくらいの覚悟でお読みいただきたい。Videoの中の田中氏の発言も一字一句聞き落とすことなく、注意を集中してお聞きいただきたい。
歴史としてではなく、現実問題として関わってくるのはタイトルにある「二段階革命」の視点だ。
村田春樹氏に繋がっていくと昨日書いたが、もっと繋がる人物を今日見つけた。リンクを6つ置くが、この方の発言にも一字一句耳をそばだててお聞きいただけたらと思う。悲観的過ぎると思われる方も、いらっしゃるかもしれないが、それはあなたが、楽観的過ぎるのだと、私は思う。
シナ中共による人口侵略 その1
シナ中共による人口侵略 その2
シナ中共による人口侵略 その3
シナ中共による人口侵略 その4
シナ中共による人口侵略 その5
シナ中共による人口侵略 その6
酒井信彦氏の整理によると、「三段階革命」というタイトルになるかもしれない。
最初の方で、人々が中国と呼ぶものにどういう歴史があって、清国から中華民国への移行に関しての当時の歴史説明もあるが、この辺は松岡がジュネーヴで世界の要人に知らしめたことである。(参照)(参照)列国はChinaを理解していなかった。軍閥などという言葉からして、ChinaとJapanの本質的違いを理解していなかったのである。またここでは防共論が語られている、下のsayonara演説ではアメリカとの友好構築意思があるばかりで(スパイはいざ知らず)日本国政府にも松岡にも日米開戦の意思は当然ながら微塵もなかったのである。これらの演説は、市丸海軍少将のルーズベルトにあたうる書のまるで草稿のような視点をすでに獲得していて、驚くばかりである。

参考資料:1933,February, in Geneva
日本人が曲解して信じ込んでいる松岡洋右の国際連盟脱退の際のスピーチ。これだけ重要なスピーチを保守論壇の誰一人として、元の日米両文で、全体を取り上げないのはおかしい。退出していくあのシーンでしか、国際連盟脱退を記録できないというのは、外か内かはわからないが、日本の歴史が何者かによって、湾曲創作されているということの証である。歴史そのものが国民に創作・洗脳されていることの証である。
現代を生きる我々には、正しい祖国の歴史を奪還する義務がある。

テーマ:日本を正常な国に戻したい - ジャンル:政治・経済

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