米国への開戦通告の手交遅延は野村大使に対する大使館員の不協力に由来した、という一般的歴史解釈に対する全力での否定検証である。筆者は在米大使館の冤罪を晴らすというよりもはるかに重要な、昭和史の大きな謎を解き明かす意図で本書を執筆した、とある。
たしかに在米大使館のもたつき、ということになっている。そうですか、で納得していていいはずがない。その後の処分を考えてもおかしいのである。何故そこまで気が緩んでいたのか、という話である。Tel Quel Japonでも何度かその点の不可解は指摘してきた。
その解明のためにこの書では深く推測している点が要約すると2点ある。
対米通告第14電を15時間も遅らせたのは、瀬島龍三だと指摘している。
ルーズベルトから天皇への親書を保留したのも瀬島龍三だと指摘している。
天皇への親書を見て、第14電を書き換えたのも瀬島であると。つまり上の2点はリンクしていると筆者は主張する。
指摘は推測の域をでない。瀬島の名がでるのは、真犯人を突き止めないと冤罪が晴れない、というような、名前の選択であるような気がする。瀬島という名前は、その理由はあえて述べないが、こういう場面に使いやすいのも確かだ。これが私の読後感であるが、他の方はどのような読後感想をお持ちになるのだろうか、聞いてみたい。
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参照1: これが、時間に遅れて手渡された、日本の宣戦布告文と言われているもの。
「Remember Pearl Harbor!」と言われるのは、この文書の交付が遅れたから。
参照2: Tel Quel Japon過去記事:
前ペイジに「立ち読みして同感の部分を2箇所発見した」と書いたが、その部分をこの過去記事から引用してみる。
〇宣戦布告が1時間あまり遅れた云々と言われているが、12月7日にハルにわたした(対米覚書)、これは宣戦布告文章ではない。交渉決裂を明言しているに過ぎない。リメンバー・パールハーバーと恨まれるのは、宣戦布告が遅れたからではない。宣戦布告の無い戦争の方がむしろ多い。戦争回避交渉中に、交渉決裂を明言せずに戦闘の幕を派手に捲り上げたからだ。
〇以前にも書いたがハル・ノートは、「叩きつけられた」と常に表現されるが、内容はともあれ、それで面を張るように、提出されたわけではない。「お返事お待ちしています」という上の電報を見ても分かる。嫌ならば、ここが嫌だ、あそこが嫌だ、こう書き換えて欲しい、ここはここまでしか譲歩できない、等など、反論をする余地は充分にあった議論のための叩き台だと受け止めるべきだったと考えている。相手がこちらを甘く見て調子に乗ったハル・ノートに仰天するよりも、むしろ自ら進んで一方的に譲歩を書き連ねた甲・乙案のほうが、日本人としては驚きである。何を考えているのやら。亜細亜解放の大和魂のカケラも大亜細亜新秩序構築の壮大な志もそのカケラもすべて、甲・乙案においては、塩をかけられたナメクジのように縮んでしまっている。
参照:2-2 ハルノート:tentative and without commitment
参照3: Tel Quel Japon過去記事から:
The Ambassador in Japan (Grew) to the Secretary of State, 8 December 1941
これははじめて見た。ルーズベルトから天皇陛下への親書に対する返事を外相の東郷がグルーに伝えた。それをグルーが本国に伝えている電報。
参照4: Tel Quel Japon 過去記事:
Last Secrets of the Outbreak of War betweenJ apan and the United States:
ルーズベルトから天皇への親書、生成過程
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「開戦神話」第一部
ー大使館とホテルでの抑留生活、日米交換船による帰国ー
は中でも読みやすく興味深いものであった。著者の父上は開戦時在米大使館勤務の井口貞夫氏。著者自身のアメリカ生活と交換船による帰国の様子の描写から本書はスタートしている。在米大使館の冤罪を晴らす、という開戦時の現場を見聞きした家族の思い、特に父の無念を晴らすという強い思いには深い共感を感じる。
/////追記:2011年8月24日/////
Tel Quel japon結論:ハルノートはたたきつけられてはいない
参照:ハルノート:
叩き台を元に話を詰めていくという発想が日本人には希薄だったのではないだろうか。従うか、拒絶しかない、外交交渉で打開できる問題ではない、という結論がずいぶん前から発想の根底にあった、とはいえないか?交渉力のなさは今も昔も、日本人の最大の欠点だと思う。交渉技術そのものが高く評価されていない。
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