TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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開戦に関する資料 

開戦関連の資料を出しておきます。

〇Memorandum [95] Regarding a Conversation, Between the Secretary of State, the Japanese Ambassador (Nomura), and Mr. Kurusu, 7 December 1941
不手際により予定より一時間以上送れた日本側の(宣戦布告?)のシーンとざっと目を通しただけで激怒するハル国務長官。以下が有名なハルの激怒の言葉。
"I must say that in all my conversations with you (the Japanese Ambassador) during the last nine months I have never uttered one word of untruth. This is borne out absolutely by the record. In all my fifty years of public service I have never seen a document that was more crowded with infamous falsehoods and distortions on a scale so huge that I never imagined until today that any Government on this planet was capable of uttering them."
1941年12月7日(日本時間12月8日)

〇以前一度取上げたと思うが、国会に於ける外相東郷茂徳の演説
JAPANESE FOREIGN MINISTER TOGO SHIGENORI'S ADDRESS TO THE IMPERIAL DIET, November 17, 1941 和平交渉中の11月17日の時点での発言として、不用意であると前回指摘したが、今回も同じ部分でひっかっかりを感じる。
but there is naturally a limit to our conciliatory attitude. Should an occasion arise such as might menace the very existence of the empire or compromise the prestige of Japan as a great power, it goes without saying that Japan must face it with a firm and resolute attitude.
こちらは戦時体制への予告とも見えたりする、戦争回避努力真っ最中の外相発言、しかもこれはNew York Times, November 18, 1941の記事として相手側に筒抜けなのだ。合衆国国民が同じ内容のこの記事を読むのだという認識もまた欠落している。
At no time is the need for mobilization of the nation's total strength, with the government and the people uniting, felt more acutely than at the present juncture.
〇Telegram from Ambassador Nomura on the Consequences of a Breakdown in the Negotiations, MAGIC, From: Washington (Nomura) To: Tokyo 15 November 1941 (Purple) #1098
11月15日の東京への暗号電文である。読んでみて緊迫感がありすぎて驚いた。これは暗号解読されている。とするとハルの驚きと怒りは完全に演技であることがわかる。この時点ですでに昨日記事にした交換船の話が出ている。話だけでなく、その後準備着手もされている。 参照:収容所に入れられた残留日本人 過去記事

〇昭和16年(1941年)12月8日(月)4:20より(米時間 7日 14:20より)、野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使はハル米国務長官と会談し,交渉を打ち切る日本政府の意図を正式に伝える「対米覚書」を手交した。「対米覚書」とは日米交渉打ち切りを意味する文書である。内容を見てみよう。
対米覚書」=日本の対米開戦通告
この電文は14部から成り立っていた筈なのに、と思っていた。こちらが分かりやすい14部の分割がわかる資料。

文書・音声保管庫 1941

United States Note to Japan November 26, 1941
 ハルノート。
Message From the President to the Emperor of Japan December 6
既に紹介済みのルーズベルトから天皇陛下へのメッセージ 参照:Tel Quel Japon過去記事
戦争回避に動いた人たちは戦争回避のパフォーマンスに利用されただけなのか、あるいは単なる空想論者か、あるいはルーズベルトの僕か。ルーズベルトからの親書、考察。画面から直読みするには長すぎる。鵜呑みにするわけにはいかないが、とても貴重な資料である。全く別の次元の日米が見える、単なる政治力の一場面かもしれないが、だとしても興味深い。
Japanese Note to the United States December 7, 1941
上にも紹介している対米交渉打ち切り文
上3つの〇の資料元ペイジ

〇Radio Address Delivered by President Roosevelt From Washington, December 8
入れ代わり立ち代わり5人にこうも攻め立てられたら、聞くのに辛いものがある。こういう場を作るのが政治力なのだと思う。
「汚辱の日」の演説でルーズベルトは日本政府及び天皇と太平洋の平和維持のために交渉中であったといっている。天皇が入っていることに初めて気づいた。例の真珠湾攻撃直前に届いた書簡の事か?それともほかにも直接交渉事実があったのだろうか。
Radio Address Delivered by President Roosevelt From Washington, December 9, 1941
これも以前に取上げた。こういう資料の元ペイジは「Documents of the Interwar Period

The Ambassador in Japan (Grew) to the Secretary of State, 8 December 1941
これははじめて見た。ルーズベルトから天皇陛下への親書に対する返事を外相の東郷がグルーに伝えた。それをグルーが本国に伝えている電報。

大東亜戦争 開戦の詔勅
日本人はこれを暗記するほど何度も読み返す必要がある。重要資料である。

東条英機日本首相の宣戦布告演説(1941.12.8) 

太平洋戦争勃発時系列

以上は2011年3月30日最終入稿
以下は追記:2011年5月27日
参照:開戦に関する資料
これまで流布している基礎的な開戦までの経緯
Tel Quel Japonはこれまでの資料は教科書的にリンクはしますが、それを鵜呑みにするのではなく、そこに新しい視点を持ち込み可能な限り今までにない別の角度から、新資料を持ち込み検証するのをその使命としています。リンクやBookmarkがそのまま、Tel Quel Japonの主張ではありません。
今回のリンクは入手できる最高の必須の教科書資料なので、再度リンクさせていただきました。
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テーマ:軍事・平和 - ジャンル:政治・経済

Canada at the side of Britain

Canada at the side of Britain
Broadcast Date: Sept. 3, 1939
Canadaは英国側につくことを表明している

1939年、自由党のウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング政権は英国の宣戦から7日後の9月10日に独自に対独宣戦布告をして第二次世界大戦に参戦したが、カナダ軍が英国に到達したのは同年12月のことである。カナダ軍は大西洋の戦い、ディエップの戦い、ノルマンディーの戦いで大きな役割を果たしてナチス・ドイツ打倒に貢献している。カナダ経済は戦争需要による好景気に活気づいた。1945年の終戦後にカナダは国際連合の原加盟国となった。(以上wikipediaより) イギリスにおくれること7日目に正式に対独宣戦布告をした。しかし英国と同時に参戦意志を表明していたことがわかる。

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Prime Minister Neville Chamberlain declares war on Germany

ノモンハン事件 (2)

ノモンハン
捕獲したソ連戦車=1939年7月、ノモンハン

You Tube 「ノモンハン事件」-1
NHKの放送らしいが敵国の捏造解釈を垂れ流している。

ノモンハンの真実[H21/7/6]
せめてこれくらいの話は聞いておくべきだろう。

歴史街道2011年5月号には総力特集「ノモンハンの真実」が掲載されている。その中から中西輝政氏と福井雄三氏の記事をある方に提供していただいた。
中西氏の記事からランダムに抜粋:
○ ロシアの有力日刊紙が、ソ連側が日本を挑発するために、国境線をわざとずらしていた事実が判明した、としてソ連の侵略を認めた。
○ノモンハン事件はソ連側(外蒙古軍)の越境侵攻に始まるものであり、日本軍の侵略では決してなかった。
○東條英樹は関東憲兵隊司令官時代、関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け、活動を行っているものを多数検挙している。
○リュシコフは日本軍攪乱のためのスパイであった可能性が高いと、ゾルゲを取り調べた吉河光貞検事が証言している。
○今日ノモンハン事件は、東京裁判の虚構性と、長らく断定的に語られてきた「昭和史」というものの偏向を誰の目にも明らかにする事例である。
○日本人の多くはノモンハン事件を敗戦までよく知らなかった。東京裁判で「日本軍のソ連に対する侵略戦争」と断罪され知るところとなった。昭和20年8月、日ソ中立条約を破って満州、千島、樺太へ侵攻したソ連は、自己を無理に正当化するため、これを「ノモンハンにおける日本軍の侵略への反撃」と位置付けた。
○上の歴史観を歴史学者や教員組合に指示したのがコミンテルンの後継組織、コミンフォルムで、これは日本に共産主義支持の歴史観を植え付けるためのソ連の対日戦略であった。
○小さいときに見てびっくりした思い出のあるこの映画、「日本の侵略を阻止したのはソ連だった」というプロパガンダ映画だった、そう言われれば、主人公以外の日本人はほとんど悪人だった。完全自虐史観映画。おそらく多くの日本人の歴史認識に多大な影響を与えただろう。
福井雄三氏の記事の私的要約:
ドイツがソ連に侵攻し、不可侵条約を破棄したとき、日本は北進してソ連に攻め込むべきだった。この時こそが「第2次世界大戦において、日本が勝者になる唯一にして最大の好機だった」とチャーチルも語っている。日本が南進を選んだのは、ノモンハンの戦況が捏造されて伝えられたからである。もう一つの原因はゾルゲや尾崎の大仕事である。尾崎は数値の改竄工作まで行って「南方の資源地帯を押さえるべきだ」と吹き込んだ。尾崎やゾルゲは氷山の一角で、おそらく政府高官な中にもスパイはいただろう。日本は南進を選び、「ソ連を救い、さらに日米を対立させる」というスパイ工作の目的にまんまと落ち込んでしまった。ラムゼイ・グループのブーケリッチや宮城与徳はノモンハンの戦場に入り、実際スパイ活動をしていた。
モスクワ陸軍駐在武官・土井明夫はソ連の意図を正確に見抜いていたが最後には諜報戦にやられ「負けた」と思ったのだ。停戦交渉などせずに一気に勝ちの波に乗るべきだった。後からわかる繰り言に過ぎないが。スパイたちにしてやられたノモンハンの戦況誤認が、歴史の捏造や、日本の敗戦に思いのほか大きく大きく作用しているのがわかる。重要証拠が入手できるようになった、それもわずかここ十年少し前頃から、ようやくわかってきた。ノモンハン事件の捏造のない真実を、日本人はもっと徹底して検証し、世界史を書き換えなければならない。侵略者の汚名を晴らさなければならない。
なによりノモンハンで戦った兵士たちに、今までのような解釈のままでは、申し訳ない。自決を強いられた将校たちの無念、晴らさずにはおけない。忘れてはいけない。怨念の刃は日本人のこれまでの無策な歴史認識に向けられているのだ。



ノモンハン事件 藤田嗣治

Fujita
上の絵は、哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘 (部分)
Leonard(Tsuguharu) Foujita(1886-1968)

作家や画家や作曲家まで、戦争をテーマにしたからといって、糾弾されるのはおかしい。日本に見捨てられて藤田は去った。
参照:モンパルナスの日本人
Leonard Foujita in Montparnasse
日本人及び日本国家の消滅を画策した売国奴(敵側スパイ)だけが、この国では「恋焦がれ」られている、とは!
参照:Tel Quel Japon過去記事
参照 鳥飼研究室サイトノモンハン事件の部分

追記: 2009年2月1日
参照:こちらも興味深いwikipedia ノモンハン事件
参照:筆者の肉親愛に感動する(モンゴルに行くきっかけ、は1~7話まである:この絵にまつわる話とノモンハン事件

ところで上の戦争画なのだが、ソ連軍戦車の前に大敗したと認識されていたために、この図はありえない、戦意高揚のための捏造だと誤認され、戦後、画家の人格にまで非難が及んでいた。藤田の名誉回復はなされるべきだろう。
ノモンハンの戦場にて
この写真はノモンハンにて万歳を三唱する日本兵達!
参照:出所はこちらのペイジ:この写真を掲載して「ありえないだろう」と憤慨している他のサイトもあった。これはノモンハンで戦った実際の元兵士が、所有されていたもので、憤慨していた当人がその兵士の方から借り受けて掲載したものがそもそもの出所と思われる。
昨日と今日(2009年2月3日)と再度そのアドレスを探し、見つけた。こちらが写真の出所と思われるペイジ:

追記:2009年2月2日
参照:加藤哲郎氏のノモンハン事件とゾルゲ事件研究
ノモンハンに関しては日本から持ち出された情報がどうのと言うより、スパイのもうひとつの役割、すなわちどういう虚言が日本側司令部の耳元で囁かれたか、を検証することのほうが急務であると思われる。関東軍の暴走と言われるが果たしてそうだったのか?(さしたる責任は問われていない。)後に自殺者が出たのは、引き方に納得が出来なかった、現場で命をかけた者達の、それこそ悲憤だったのではないだろうか。新しい視点の獲得を急がねばならない。

追記:2009年2月3日
参照:ノモンハン事件 元ソ連参謀本部大佐手記詳訳
参照:本当は日本軍の大勝利だったノモンハン事件
参照:ノモンハン事件の真相と成果 : Blog「年輪」
参照:ノモンハン事件について
参照:カスタマーレビュー
ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録
参照:わかりやすい戦争
参照:祖父の命日にノモンハンを考える

・・・・・上の記事の最終入稿は2009年2月1日です・・・・・
・・・・・ノモンハンを並べるために再移動しました・・・・・

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