TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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ルーズベルト大統領への手紙




YouTube - 「ルーズベルト大統領への手紙」 市丸海軍少将
Voice of Japan
Who was Aggressive? Focus on A Note to Roosevelt
時代を読み、時代の先を読む、大日本帝国軍人の知性の高さと、魂の真意がほとばしり出る、なんと完璧な「ルーズベルトに与うる書」なのだろう。

以上は2011年3月11日の記入です。
・・・・・追記2011年4月29日・・・・・
市丸少将は、地下20メートルの洞穴に動けるものを全員集め訓示をした。次に間瀬式次中佐が一歩前に出て、市丸提督よりルーズベルト大統領にあてた抗議文を読み上げた。朗読がすむと、この抗議文の和文のほうは通信将校の村上大尉が腹に巻きつけ、英文に訳したものは赤田邦夫中佐(27航戦参謀)が身につけた。この「抗議文」は後になって米海兵隊員の手で二人の死体から発見された。現在はアナポリスの海軍兵学校の博物館にある。
(典拠:「死闘/硫黄島・沖縄」堀江芳孝著 昭和48年4月10日3版発行 学習研究社刊ー著者の堀江芳孝氏は元陸海軍の連絡参謀)


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VENONAに関して(1):Vasili Mitrokhin 未完

ミトロキン文書
ミトロキン文書IIが曝露

Venonaに関して(1):Vasili Mitrokhin
Vasili Mitrokhin was a KGB archivist

“Stalin was even better informed about his allies at Yalta than he had been at Tehran. All of the Cambridge Five, no longer suspected of being double agents, provided a regular flow of classified intelligence of Foreign Office documents in the run-up to the conference.”
— Vasili Mitrokhin

Yalta Conference 別の目で

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

Rewi Alley 人物紹介

Gung Ho - Rewi Alley of China
Television, 1980 (Documentary, Historical) Clip1-4

日本語紹介頁
Rewi Alley 人物探究
Rewi Alley : Bio 
Eager for change, Alley joined a small group of western Marxist intellectuals, including YWCA organisers and American journalists Agnes Smedley and Edgar and Helen Snow. In the years 1932-37 he wrote (under aliases) for the radical journal Voice of China and worked secretly for the Communist underground, including having to wash ‘bloody money’ obtained by Red Army raids executed under the guise of anti-Japanese strikes. ここにもひとり月の客、ならぬ愛中派(愛共派)ニュージーランド人の登場。Bioを読めば内戦状態のCHINAで知的白人たちが、共産主義に没入していく様がよくわかる。
In 1942, together with Oxford-educated English teacher George Hogg, they retreated to the remote Gobi desert in China’s north-west to set up a technical school, initially in Shuangshipu and then in isolated Shandan (1944) to distance themselves as far as possible from suspicious Guomintang spies.以前記事にも書いたGeorge Hoggとも繋がってきた。

CCTV NEWS Rewi Alley 
Part 6 CCTV NEWS Rewi Alley

・・・・・///・・・・・

The long march of a forgotten English hero

The Children of Huang Shi Part 1 of 12
The Children of Huang Shi (2008) story



テーマ:国際政治 - ジャンル:政治・経済

映画:台湾人生

『台湾人生』酒井充子監督インタビュー: もうひとつ
『台湾人生』知識『台湾人生』メッセージ「台湾人生」元サイト
参照「台湾人生」1「台湾人生」2「台湾人生 3

日本と台湾 ~ ともに歩んだ50年(1895~1945)
もう一度日本時代に戻りたいです
アジア諸国は親日だった

最近近所の御婦人が台湾旅行をされて、そこである台湾の現地のおばあさんにこういわれたそうです。
「沖縄が日本に返還された時、台湾も日本に返還されると当然に思っていたのに、結局台湾は日本に戻らなかった。何故台湾を戻してくれなかったのか。なぜ台湾を見捨てたのか。それだけが一生の残念無念だ。と日本に帰って伝えて欲しい」と。
台湾には生まれた時から日本人として育った人が沢山いた。日本が戦争に負けて、あれよあれよと言う間に日本人でなくなっていく。そこへ大陸から。それでもいつか日本人に戻れる日をひたすら耐えて。置き去りにされた者の気持ちに対しての配慮も必要だ。責任は当然あるだろう。中国の顔色ばかりみて、何も出来ないようでは、永遠の自己矮小化国家に成り下がる。口の無い国家だ。日本人の心をもった同胞が、高齢のため毎年この世から消えていく。日本から日本が消えてゆくのと平行して。
私が20数年前台湾旅行した時は、台湾で教師をしていたという高齢の日本人女性も参加されていた。元の教え子たちが、こっそりとホテルにその恩師を尋ねて来ていた。あれれ、と思って覚えているのは、ふと飲んだ自動販売機の缶コーヒー、マッカーサーの顔が印刷されてあり、コーヒーの名前も「マッカーサー」だったことだ。台湾、マッカーサー?またそのツアーでは他にも外地からの帰国者のかたが沢山おられて、敗戦時の外地の恐怖と苦労を少し聞かせていただいた。例の後で問題になった売国的NHKの番組では、台湾人は漢民族だと解説していたが、その一言で馬鹿馬鹿しくなってそこですぐにスイッチを消した。しかしそう思い込まされた日本人も多いかもしれない。私は福本和也の小説「赤い航空路」によって、初めて台湾の台湾人の何たるかを知った、と記憶している。知っていたから騙されなかった。

・・・・・追記:2011年4月24日・・・・・
参照:台湾は日本の生命線。 台湾人は漢民族ではない。
参照:震災復興最大支援国 台湾
(台湾の戦後を国際的にあるいは内部から見た場合は、「日本は亜細亜を解放した戦勝国だ」などと、たとえ極端に非論理的に思考してこじつけてみても、思考力のある人間にはとても言えまい。戦争を敗戦を今後を亜細亜的に再考するなら、日本にとっては台湾の国際的なポジションこそが最優先の課題だと気づくべきだ。気づいてもその先が思考できない、諦めにすがるほど老いて体力も思考力もなくしているのかもしれないが、だとしたら非常に残念なことだ。)
参照:日本李登輝友の会について

家の近所に中国で育ち、20歳で帰国した日本の人がいる。その人の友人で同じ頃に来日し、その後40年近く日本に暮らしている台湾で育った元台湾人の人がいる。近所の人に聞いたのだが、友人の元台湾人の人はいつも子供に「日本人を見習いなさい」と教育してきたし、いまも常にそう言うのだという。すでに40年も日本に暮らしているのに、二人は私の前でも、中国語で喧嘩していた。中国語で喧嘩できるほどの友達なのだが、価値観が合わないらしい。これが縮図でなくて何であろうか。

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

田中上奏文(4) Homer Lea

        Homer Lea
上の人物の顔をよく覚えておいていただきたい。田中上奏文はこの男の着眼を誰かが日本消滅を企んで悪利用したものかも知れない。Homer Lea自身、日米開戦の預言者だといわれている。頭の中で未来を先取りし、時代の流れを誘導かつ創造した張本人である。
参照:Homer Lea : The Valor of Ignorance  full text
参照:Homer Lea: : 「日米開戦論」 1909
参照:Who is Homer Lea? A perfect site
ぎょぎょっと、こんなペイジもある:要注意
田中上奏文の前に日本国敵視は既に醸造されていた。シナリオはほぼ同じ着眼。しかし日本側はアメリカにおける彼の影響を随分と軽く受け止めていたようだ。他国に於ける影響力や他国民の心情のシミュレイションが出来なかったのかもしれない。喜ぶだけでなく危機感をもって受け止める必要があった。
参照:大正期における日米未来戦記の系譜
田中上奏文(3)で「それがどうした。何か用か、9日10日」と書いているが、日本側は「日米戦争」(「無知なる勇気」)の内容自体を悪利用される可能性など思いもよらなかった(ただ、面白い読み物のひとつだと受け止めていた)ということが分かるだろう。
参照:高平小五郎
参照:ポーツマス会議直後の「恐日文書」 :(もうひとつリンク
参照:孫文の革命は 東京から始まった
いまさら言われなくとも周知のことだ。辛亥革命達成のために全面協力した日本人は何も宮崎滔天のみではない。ただこの記事で興味を引くのは以下の写真の解説だ。写真の説明は「孫文と宮崎滔天が並んであるく銅像」とあるが、実は「孫文をはさんで反対側にはアメリカ人で孫文の軍事顧問となったホーマー・リーがいる」。ホーマー・リーが極端に小さかったから写らなかっただけなのか。あちら側のホーマー・リーはこちら側の日本人を、孫文をはさんで既に敵対視していたのだろうか。憎悪していたのだろうか。何故だ!
        
        宮崎滔天

こちらが3人揃った貴重な写真と3人に関する記事。
With Homer Lea: Please click

・・・・・以上:2009年7月25日・・・・・
・・・・・追記:2011年1月18日・・・・・
In Japan, a blog page on a popular Japanese website leads to more information about Homer Lea and Miyazaki Toten (see both links below).
Homer Leaの元サイトに上記の文章と共にTel Quel Japanのアドレス・リンクが貼られているのを,偶然に発見した。日本語が読めないので、好意的紹介だが、この元サイトを見るにつけ、宮崎滔天及び物心両面にわたる日本の莫大な援助は何だったのかと思わざるを得ない。歴史家が意味付けをし、史実として世界史に記述を残さねばならない。

・・・・・追記:2011年1月30日・・・・・
どうしたわけかほとんど表面に名前が出ることは無いが、孫文に個人でおそらく最も多大な援助をした、久原房之助氏。孫文支援者の資料に名前が挙がらないのは、何か理由があるのだろうか。歴史はときどき、敢えて健忘症のふりをする。
・・・・・追記:2011年4月19日・・・・・
こういうBlogを発見した。興味ある記事であるが今回は久原房之助氏関連でリンクしてみた。久原房之助の邸宅跡(現在は料亭)に孫文を逃がすためのトンネルがありジョナサン・チョイ氏のリクエストで急遽、そこを訪れることに。←興味ある一文が紛れ込んでいた。
上のBlogは梅屋庄吉氏紹介をメインにしている。初めて知るが、こちらも強烈な孫文支援者であったようだ。そしてこのあたりの日中友好は現日本の政治家も巻き込んで依然として続いている。太いパイプのようだ。
梅屋庄吉をめぐって:Blog1 & Blog 2
Homer Leaとも接触があったのだろうか?
You Tube:「革命をプロデュースした日本人」1時間22分21秒
非常に興味がある。今年は辛亥革命100年、いろんな意味で再検証すべきだろう。
孫文のみならず、当時の中国と日本の関係、及び当時の日本人精神を発見する事もまた必要。

・・・・・追記:2011年4月20日・・・・・
Homer Leaを最初に書物で紹介したのはClare Boothe Luce,このClare Boothe LuceにHomer Leaの存在を教えたのは、あのCharles Willoughbyだった。驚いた。Charles Willoughbyは博学だったわけだ。以下その部分を上のリンクから引用します。
It was a melancholy, stifling night, but in the bright room, one talked, as every visitor in Manila did in those days, lightly enough of possibility of Japanese invasion of the Philippines. " If it comes, where will they strike first?" I asked. Colonel Charles Willoughby drew a deft map of Luzon on the Major's tablecloth. "The main attacks will probably come here, at Lingayen Gulf," he said, making an arrow, " and then here - at Polillo Bight. Ye olde pincer movement." " You're not giving away military secrets?" The officers all laughed. Colonel Willoughby pocketed his pencil. "No," he said. "Just quoting military gospel - according to Homer Lea. " Who is Homer Lea?" The Colonel said, " Thirty three years ago, a strange young man who call himself 'General' Homer Lea, wrote a book about a war to come between America and japan. In it he described, in minutest details the Jap campaigns against the Philippines, Hawaii, Alaska and California." "A sort of the American Nostradamus?" The Colonel said, "Not at all. Homer Lea was neither a mystic nor a prophet. He was a scientist. He studied the science of war - the fundamental laws of which are as those of any other science."
近くにいたのだから、孫文もHomer Leaの見解をWilloughbyと同じように理解していた筈だ。Homer Leaが孫文の近くにいる限り、日本人の膨大な援助とその志は、大きく裏目に出ていたことになる。孫文の近くに張り付いていたHomer Leaの正体に日本人は誰一人気づかなかったのだろうか?

・・・・・追記:2011年4月21日・・・・・
辛亥革命 & 孫文の日本人妻 & ミハイル・ボロディン
辛亥の広場  & 孫文記念館 & Lea’s Final Days
千夜千冊:ホーマー・リーは作家として位置付けられてはいるが、孫文の軍事顧問だったことはここでも見落とされている。

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

Chen Hansheng -資料室-

Smedley関連でChen Hansheng に行き当たったのだが。
Chen Hansheng Obituaries
The life of Cheng Hanseng :
Legendary Life of Chen Hansheng
In May 1939, Chen moved to Hong Kong to help Soong Ching Ling, Rewi Alley and Edgar Snow set up the International Committee for the Promotion of Chinese Industrial Cooperatives.

追加:2009年7月8日
中国関連は本当にややこしい。中国語も3,4年は学習したのだが、その程度ではCheng Hansengから人物が特定できない。上のnet上のpagesが見つかったのが幸いだった。内容を読んである人物を思い出した。陳翰笙(ちんかんしょう)のことだ。107歳まで生きている。産経新聞の「ルーズベルト秘録」上P.316~の「謎の中国人 ゾルゲ事件、もうひとりのスパイ」に謎の中国人「ワング」として登場、半世紀後にようやく(ちんかんしょう)だと身元が判明したとある。P.319にはSmedleyと並んだ写真が掲載されている。ゾルゲ事件発覚後はモスクワに逃げている。その後Smedleyの紹介でNew Yorkに飛びIPRの機関誌「Pacific Affaires」でOwen Lattimoreに影響を与えた。二人してIPRを親ソ親シナに仕立て上げた。
ゾルゲ事件に関してもSmedley以上の活動をしているのだが、逃げ遂せたし名前が記録に浮かび上がることもなかった。アメリカ海軍士官学校の歴史学助教授が半世紀を経てようやく炙り出したコミンテルンの工作員だ。驚くべき行動力や知的活動力を持っている。シナの農民政策の理論構築者であると言ってもいいのではないだろうか。ただ基本的に工作員なので、net上でさえ、上のリンクの2本で精一杯、たいした資料は出てこない。

Chen Hanshengを調べる過程で随分横道に逸れて以下の2本の映画を見つけた。
1.映画 内容 映画解説 主人公 こんな映画があったんですね。
2.映画 映画 映画 監督が語る 内容が意味不明。
とは言え、ヒーロー達は常に日本の悪に対峙している。もうさすがに、うんざりしていたら、素晴らしい書物に出会った!昨日読了した。これ一冊でずれた軸も正しく矯正されるだろう内容だが、すでに多少なりとも軸がぶれている人(私を含め、ほとんど全員)は、ここまで言っていいのかな、なんて思うだろう。ぜひ、ご一読をお勧めしたい。
原題は「Ways that are dark-The Truth About China」、1933年にアメリカで出版された。邦題は「暗黒大陸 中国の真実」2004年7月20日芙蓉書房出版刊、筆者は1931年上海副領事として中国に渡り、後に福建省の副領事に就任、1933年に帰国したコロンビアビア大学卒の元新聞記者、外交官だったラルフ・タウンゼント氏。(日本の真珠湾攻撃の後、悪者日本の風潮のあおりを受けて、氏は1年間投獄された。そして1975年米人どころか、日本人にも感謝されることのないまま鬼籍に入られた)
76年前の中国を政治的操作による偏見のない目で、虚心坦懐にお読みいただきたい。時間のない方は、せめて第9章だけでもお読みいただきたい。内容のみならず、歴史を考える際、過去を現在から振り返るのではなく、現場感覚がいかに重要であるかも、お分かりいただけるだろう。
「いずれにせよ、現代では当時の中国の赤裸々な実態は忘れられているわけで、その意味での初訳には小さくない意味があると我々は考えている」とあとがき(解説)にもある。お二人の訳者(田中秀雄氏、先田賢紀智氏)そして芙蓉書房出版にも、ここで感謝を申し上げたい。

//////追記:2011年4月11日:陳幹笙 Chen Hansheng//////
My Life Through Four Eras :陳幹笙
参照:ゾルゲ事件 対日工作 中国人工作員が関与

ちきゅう座 - スタディルーム
ゾルゲ事件の真相究明から見えてくるもの
川合貞吉の供述と著作『ある革命家の回想』とスメドレーに関するアリバイの実証的研究
楊国光著『ゾルゲ上海ニ潜入ス』に異議あり

ヴェノナ: 解読されたソ連の暗号とスパイ活動
解読されたソ連の暗号と共産主義スパイ活動

テーマ:戦争 - ジャンル:政治・経済

米国国務省における対日政策の形成 資料

米国国務省における対日政策の形成 資料と解説
対日戦後政策の原案
1)戦後政策を検討する特別調査部領土小委員会に1942(昭和17)年8月極東班が編成された。
2)翌年7月、米国の基本方針をまとめた「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」が起草された
(July 28, 1943):General Principles Applicable to the Post-War Settlement with Japan (T-357)
その1 & その2
3)米国の対日戦後目的」が作成された。
1944年(昭和19年3月14日):The Postwar Objectives of the United States in regard to Japan (PWC108, CAC116)
その1 & その2 
4)対日占領政策の「原型」が作成された。Text
(May 4, 1944):Japan:The Post-War Objectives of the United States in regard to Japan (PWC108b, CAC116b)
その1 & その2 & その3

・・・・・・・・
1943年12月29日: グルーのシカゴ演説 1/40
拡大画像資料1/40 : TEXT

(1945年5月8日):トルーマンの日本国民に対する声明
拡大画象その1その2TEXT
・・・・・・・・・

元サイトにはその後の資料もあるので、興味のある方は各自検証されたし。資料は多く途方も無い時間が必要かもしれない。
これだけでなくもっと多角的視野で検証すること、そして既成の解説に頼ることなく、思い込みの無い新たな視点での考察が必要だと思われる。すでに資料としてあるものは、ある見解の元、方向が整理され、取捨選択を経ていると言う事も忘れないでおきたい。


////////追記:2011年4月8日////////
平行して読んでみるのもいい。
Japan: No Surrender in World War Two:BBC
JAPAN: Hiroo Worship: Time
これらの記事をあらゆる角度から、検証し直すのも貴重な作業だと思う。日本は復興したのか、別の国になったのか、あるいは復興しなかったのか。敗戦の負が日々蓄積されているだけの国なのか。日本人をテーマに考えてみるのも必要なことだ。

元日本兵 小野田少尉 -苦悩と母の祈り-
Japanese Stragglers Fought On after WWII Surrender

・・・・・追記:2011年10月6日:ついでにYou Tube・・・・・
危機に瀕する日本: 日韓紛争概説 文化略奪と歴史歪曲に関する一考察
日本列島は韓国人の所有物である!- by 電通

Why we fight : Prelude to War1943

Why we fight : Prelude to War1943
纏まっていてとても分かりやすい。
・・・・・・・
上のBlog「News & Media」の2009年03月18日の記事にはTel Quel Japonを紹介してくださった西尾幹二先生の日録のペイジが「Prelude to War1~6」の前に紹介されています。昨日初めて気づきました。

Blog「News & Media」のカテゴリー:歴史 昭和史
はとても興味深い。リンクを貼って紹介します。

テーマ:軍事・平和 - ジャンル:政治・経済

後に使う資料として-1

Kades,Charles Louis
参照:昭和電工㈱日野原節三社長逮捕
Courtney Whitney

参照:Tel Quel Japon過去記事

MacArthur, Yoshida, and Postwar Japan
by Richard B. Finn
(目の調子が悪くて画面から直接読めないが非常に興味がある。)

・・・・・
The Decision to Risk the Future
・・・・・
International Association for the Advancement of Ethnology and Eugenics:

November 30~December 2 1941 Tokyo⇔Washington

November 30~December 2 1941 Tokyo⇔Washington
あまり知られていない11月30日から12月2日までの3間日の電報のやりとりを調べてみる。今まで見えなかったことが見えてくる筈だ。

1.Ambassador Nomura's Description of the American Press Reaction to Premier Tojo's Speech, MAGIC, From: Washington (Nomura) To: Tokyo, November 30, 1941, Purple, #1222
(東条の演説の中に "The exploitation of the Asiatics by Americans must be purged with vengeance'という言葉があったと、アメリカの新聞が反応して、休暇中の大統領が急遽執務室に戻ったという内容。日英両方の演説文をTokyoに要求している。アメリカの怒りをどう静めるか。この東条の演説を現在捜索中。11月29日か30日に日本で日本語で行った演説に違いない。英文としては過激な言葉になっている。果たしてどういう日本語だったのだろうか。内容的に見れば、真情を吐露したとも思えるが、こんな時期に宣戦布告に近いことを言ってはならない。米国で報道される事は頭に無かったのだろうか。米国民の顔が思考範囲に見えていなかったのだろうか)

2.Telegram from Tokyo to the Japanese Embassy in Washington to Keep Negotiations Going to Prevent the US from Becoming Suspicious, MAGIC, From: Tokyo, To: Washington, 1 December 1941, (Purple?CA), #865
(ハル・ノートの後なので、日本側の臨戦体制は決定している。しかし交渉はあくまでも続けるように。大統領の休暇の中止は、東条の演説と言うよりも、極東情勢の緊迫が原因ではないか)

3.Telegram from Ambassador Nomura on His Discussions With Hull, MAGIC, From: Washington, To: Tokyo, 1 December 1941, (Purple), #1225
With regard to the matters pertaining to French Indo-China the government of the United States, too, cannot help but feel concern since it has been receiving report after report during the past few days, from U. S. officials stationed in that area, of unusual movements of the Japanese army and navy; the landing of various types of arms; and the movements of transport vessels.
(日本の動きが気になって仕方がない米国。腹を括った日本と比べて、不安と緊張は高まっている。しかしハル・ノートを引っ込める気は全く無い。応じてくれたら有難い、と言ったところか。日本の甲案,乙案を何故一顧だにしなかったのか。また日本はどういうつもりで何を考えて甲案、乙案を提出したのか。結果足元を見られただけなのではないか。ハル・ノートの構想にヒントを与えたのではないか。背後にいるこの時期のドイツの動きも、米国に恐怖心を与えていた筈だ。弱気すぎる日本がかえって米国の猜疑心をかき立てたのではないか。東条の発言については、誤訳とか一部引用による誤解とか、苦しい言い訳をしている)

4.Telegram from Ambassador Nomura on Reactions to Speeches and Press Reports in Japan, MAGIC, From: Washington, To: Tokyo, 1 December 1941, (Purple), #1226
the general opinion seems to be that Tojo's speech indicates the refusal of the Japanese Government to accept the proposals submitted to it by the United States on the 26th.
日本のハル・ノート拒否、交渉決裂は、米国側に充分予測されていたわけだ。あとはタイミングだけの問題。アメリカ側の緊張理由がよく分かる。

5.Telegram from Ambassador Nomura on Exploring a Leaders' Meeting Between the US and Japan,
MAGIC, From: Washington, To: Tokyo, 1 December 1941, (Purple), #1227
would it not be possible to arrange a conference between persons in whom the leaders have complete confidence, (for example, Vice President Wallace or Hopkins from the United States and the former Premier Konoye, who is on friendly terms with the President, or Adviser to the Imperial Privy Council Ishii). The meeting could be arranged for some midway point, such as Honolulu. High army and navy officers should accompany these representatives.
(これは初耳の最後の話し合いの提案だ。Adviser to the Imperial Privy Council Ishiiは調べた結果、石井 菊次郎と判明した。成果があったかどうか分からないが、文書の交換による交渉よりも、体温が感じられたかもしれない。石井 菊次郎は意外ではあるが、適任であることに間違いはない。)

6.Telegram from Ambassador Nomura on the Importance Attached to Premier Tojo's Speech in the US, MAGIC, From: Washington, To: Tokyo, 1 December 1941, (Purple), #1230
Some of the newspapers go to the extreme of commenting that if the speech is given a literal interpretation it can mean nothing except a declaration of war.
これは11月17日の東郷のスピーチに私が感じたのと同じ危惧である。
Even if the worst eventuality materializes, we should be in a position to show all neutrals and outsiders the complete innocence on our part.
東条だけではない、KayaもSuzukiも口が軽い。開戦決定に勇み立ってしまい,相手方の緊張反応に思い至らなかったのだろう。時期的にも米国側はハル・ノートの解答を、すなわち開戦を今か今かと息をつめて待っている状況なのだ。6.は全文上の2.に対する返信である。

7.Memorandum Regarding a Conversation Between the Under Secretary of State (Welles), the Japanese Ambassador (Nomura), and Mr. Kurusu, 2 December 1941
Hullに代わってMr. Welles がルーズベルト大統領からの伝言を伝えてきた。
I have received reports during the past days of continuing Japanese troop movements to southern Indochina. These reports indicate a very rapid and material increase in the forces of all kinds stationed by Japan in Indochina.インドシナに於ける日本軍の動きについての懸念を表明している。The stationing of these increased Japanese forces in Indochina would seem to imply the utilization of these forces by Japan for purposes of further aggression, since no such number of forces could possibly be required for the policing of that region. Such aggression could conceivably be against the Philippine Islands; against the many islands of the East Indies; against Burma; against Malaya or either through coercion or through the actual use of force for the purpose of undertaking the occupation of Thailand. Such new aggression would, of course, be additional to the acts of aggression already undertaken against China, our attitude towards which is well known, and has been repeatedly stated to the Japanese Government.かなり強硬である。he wished to point out that the Japanese people believe that economic measures are a much more effective weapon of war than military measures; that they believe they are being placed under severe pressure by the United States to yield to the American position.野村が言い返している。He said that in view of the actual situation in the Far East there were points in our proposal of November 26 which the Japanese Government would find it difficult to acceptハルノートに固持するMr.Wellesに来栖が率直に言う。(えェ!)ワシントン条約にも言及している。ハル・ノートに対する解答を待つということと、来栖の意見を大統領に伝えるというMr.Wellesの言葉で会見は終わっている。

8.Telegram from Ambassador Nomura Describing His Meeting with Welles, MAGIC, From: Washington, To: Tokyo, December 2, 1941, Purple, #1232
Judging by my interview with Secretary of State HULL on the 1st and my conversations of today, it is clear that the United States, too is anxious to peacefully conclude the current difficult situation.
わざとこう書いたのか、野村は知らされていなかったのか?初めからは単にお互い相手の出方待ちの優柔不断だったのか。それなりの代表権限と責任をもった人物が、ワシントン会議あたりの内容から意見を交換させれば、開戦は回避できたのか。蒋介石やチャーチルの動きを考えれば、当然の結末だったのか。日本の背後にいるドイツ、ドイツとの兼ね合いのVichy政権、それとの兼ね合いの日本軍の仏印進駐など、日本の想像以上に米国は東洋のThe Rising Sun日本に多少は怯え物凄く焦っていたのかもしれない。軍事的に見れば、打たねばならぬ(出る杭)、国際利害面からみれば、(目の上のたんこぶ)、ゆえに両国にとって衝突は運命だったのか。

9.Telegram from Ambassador Nomura on a Meeting With Ballantine on Press Reactions to Tojo's Speech, MAGIC, From: Washington (Nomura), To: Tokyo, December 2, 1941, Purple (Urgent), #1234
At this tense psychological moment in Japanese-American negotiations, the fact that such a strong statement as this has been circulated has given a severe shock to the American Government and people and it is very unfortunate and dangerousこのBallantine の意見は尤もだ。野村の代理の寺崎が会ったのはBallantine .At present the newspapers of both countries ought both to be cool and calm, so will you please advise them hereafter concerning this pointと寺崎は言うが、journalistがこの種の発言に飛びつかないわけがない。cool and calmの表現はいいが、これは新聞に「寝ぼけろ」と言っているのと同じである。日本の意図を見抜いたとして、この新聞社も新聞記者もあとで表彰されたのではないだろうか。

〇宣戦布告が1時間あまり遅れた云々と言われているが、12月7日にハルにわたした(対米覚書)、これは宣戦布告文章ではない。交渉決裂を明言しているに過ぎない。リメンバー・パールハーバーと恨まれるのは、宣戦布告が遅れたからではない。宣戦布告の無い戦争の方がむしろ多い。戦争回避交渉中に、交渉決裂を明言せずに戦闘の幕を派手に捲り上げたからだ。日本の戦略のはずが米国の(腹芸)にしてやられたので、結果として厄介な話になってしまった。
〇以前にも書いたがハル・ノートは、「叩きつけられた」と常に表現されるが、内容はともあれ、それで面を張るように、提出されたわけではない。「お返事お待ちしています」という上の電報を見ても分かる。嫌ならば、ここが嫌だ、あそこが嫌だ、こう書き換えて欲しい、ここはここまでしか譲歩できない、等など、反論をする余地は充分にあった議論のための叩き台だと受け止めるべきだったと考えている。相手がこちらを甘く見て調子に乗ったハル・ノートに仰天するよりも、むしろ自ら進んで一方的に譲歩を書き連ねた甲・乙案のほうが、日本人としては驚きである。何を考えているのやら。亜細亜解放の大和魂のカケラも大亜細亜新秩序構築の壮大な志もそのカケラもすべて、甲・乙案においては、塩をかけられたナメクジのように縮んでしまっている。
〇終戦工作も多方面から働きかけているが、開戦前の戦争回避交渉も苦労のあとが見受けられる。大日本帝国には政府を代表する権限と責任と戦略と知性を併せ持った持った人物が、つまり正式だと相手に信頼される交渉人が、どうも見当たらないのだ。終戦工作も何度か纏まりかけるが、人物が真に代表権を持つものでなければ、最後の最後にご破算になってしまう。開戦も終戦も権限と責任の所在が明確でない。上の電報では野村は近衛文麿または石井菊次郎の名前を挙げて、TOPの最終直接対話を提案していたが、国内で提案は拒否されたのだろうか。大日本帝国は誠意の国だと実感できるが、いかんせん国家構造的に責任の所在がここぞと言う場面でスルリと消えてしまう。戦争回避交渉も終戦交渉もその肩に担っていこうとする、そして担っていける人物が明白にならない。国家間交渉の発想がそもそも出来ない国民だったのか。ルーズ・ベルトは「汚名の日」の有名な演説をして、両院で議決を取り、大統領として開戦を宣言した。国家的コンセンサスの獲得と言う手順を踏んでいる。日本人はあの有名なラジオ放送によって、初めて開戦を知ることになるのだが(国家的コンセンサスの構築の手順)云々などを言う者も発想するものもいない。奇襲だから当然なのだが、奇襲に対し国家に不信や異議を述べ立てるものもいない。国の成すがままである。常に受身が習性である。受身が習性の人間に交渉を委ねられるべくもなく、また交渉能力を期待できる筈も無い。現代的視点で言うとEngagementの発想が完全欠落していたと言える。個々人が個々の頭の中で思考する事が、無言のうちに禁じられていたのだろうか、それが国家に関する事の場合は。マッカーサーが日本人は12歳と言ったのは、そのような意味合いからなのだろうか。西洋連合国が大日本帝国を全体主義国家、Facist国家と呼んだのは、そのような意味合いからなのだろうか。いずれにせよ、いまもって日本人は闘争は出来るが、交渉はどうやら苦手のようだ。

参照:日米関係詳細年表(1941年)
参照:暫定協定案(1941年11月22日)
参照:ワシントン会議

テーマ:軍事・平和 - ジャンル:政治・経済

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