TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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ソ連との戦いには勝った? 重要追記あり

なかなかその気にはならないのだけれど、そろそろその辺の整理をしようと思って(すでにもう遅いのだけれど)拡大コピーしてある「正論」平成28年1月号のー「共産主義が起こした第二次世界大戦」を議論せぬ日本の歪みーを見つけたので、再度読んでみた。

P.183: 江崎 抜粋
ー「日本が正しかった、間違っていた」ではなくて、欧米によるアジア・アフリカの植民地化と、ソ連コミンテルンによる世界共産化という荒波の中で、日本は第二次大戦に引きずりこまれ、敗戦に追い込まれた。しかし戦後は、自由主義陣営の一員であることを選択し、ソ連コミンテルンや中国共産党と戦ってきてソ連との戦いには勝ったが、中国共産党の覇権主義との戦いは継続中だ、という大きな枠組みで近現代史を俯瞰する視点を取り戻さないといけない。それが安全保障を考える上でも最大の論点といえるでしょう。ー
ふむ、なんだかねえ、下線部が変だと。ソ連コミンテルンとの戦いに勝った?って。どんな戦いをしてどんな戦勝品を得たのだろうか?国連常任理事国の地位をソ連から剥奪し自らのものとした?中国共産党の覇権主義との戦い?多分外交上のことだとは思いますが、日本はどんな戦いをしました?ひたすら叩頭し続け70年、もはや前につんのめって、ばったり両手を突いた結果がくどいようだけれどこれー戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。ーではないの?戦いは継続中だ、等とどの口がいうのだろうか?ソ連コミンテルンとの戦いに勝った?って。池乃めだかのギャグ?ですか。ソ連コミンテルンや中国共産党にはしてやられたままで、戦後70年間もあるのに検証のメスさへ入れていない。ひょっとして主語はアメリカで、日本は同盟国なので、なりきり主語は日米合衆国、という発想なのでしょうか?もう日本国は戦前にはあったけれど、戦後は消えてしまっているという、認識?なのでしょうか?安全保障という面からはもう日本という自我は捨てて、日米合衆国という主語で発想するようにいつの間にかなっている?それが普通?これに対しては
P.183&P.184: 西岡 抜粋
日本こそが脅威をまともに受けているわけで「米国の戦いを助ける」という姿勢では勝てない。血を流すことも含めて、日本の自由を守るために何をなすべきなのかを考えねばならないと思います。
というfollowがあって、話は日米合衆国という主語による戦後歴史認識から一転して、日本が主語となる、架空の主体的積極的安全保障論に入れ替わる。

この座談会はこういった部分をのぞくとなかなか面白いのですが。前に読んだ時も西岡氏が、歴史認識の中に今現在の安全保障問題をさりげなく放り込むのが気になりました。安全保障に関してはそれは日米は戦後一貫して同盟国なのですが、歴史認識において、あの戦争に於いてはアメリカは日本の敵国であり、しかも(この辺の洞察が欠ける為だとも思いますが)、そのアメリカはソ連・コミンテルンや、共産中国と連携して日本を敗戦に追い込んだ、という事実をはっきりととらえなければならない、と思うのです。GHQ史観が日本人の頭の中でコケのように一面に蔓延るのをもはや防ぐことは出来なくなります。

「正論」のこういう座談会は、適当に読んで、渡辺昇一氏のようになんでもそうだそうだと言っていれば、いいのかも知れませんけどね。

・・・・・・・・追記:2016年3月30日・・・・・・・
コメント欄の池田様にお送りしようと思っているのは、正論 平成28年1月号の座談会、100年冷戦史観第2弾、とある。前回の第一弾は正論 平成27年5月号、まだ安倍談話が出る前、 20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)のまだ前半部の審議?のあたりのころで、おそらくGHQ史観に敗北しないで、日米一体となっての冷戦勝利史観でまとめて欲しい、という思いがあったのではないだろうか?探してみた。
第一弾は正論 平成27年5月号
その少し前には西岡氏のこの記事があるようだ。
こちらはおそらく産経新聞の正論 2015.2.24 05:03
確認したわけではないが、座談会の3人以外に、桜井氏、中西氏、なども冷戦勝利史観の賛同者らしい。
もう安倍談話も出てしまった後だし、にもかかわらず、保守層の圧倒的賞賛を受け、支持率も下がらなかった。
いまさら蒸し返しても全く意味がない。ただこの冷戦勝利史観は、安倍談話に思いもかけないヒントを与えた。主語をあいまいにすればなんとか誤魔化せる、文意の糸を矛盾だらけにして、日本語をあいまいにすれば、あとは読み方次第にすれば、評価など保守の総力を結集すれば、批判は吹き飛び、寧ろ勢いで実権行使力の強化に繋がる。まあそんなところに治まっている。
座談会で3人が批判しておられる懇話会の最終reportを出しておく。
Report of the Advisory Panel on the History of the 20th Century and on Japan’s Role and the World Order in the 21st Century

話が逸れてしまったが、わたしがここで本来言いたいのは、この冷戦勝利史観、(上記のように安倍談話の翌年にまだしぶとく第2弾として登場している)、日本がソ連に勝って、中国とはまだ抗争中、戦争中?日本はそれに勝てば、なにが戦勝品として得られる見込みがある戦い?えぇ? えぇ?戦前の日本を恥辱まみれにする戦いに参加して、市場をマーケットを貰うという、そういう戦いを続けている?まさか違うでしょ。言葉で言うより、見るほうが早いでしょう。ニュースを少し並べて見ます。
冷戦勝利史観、ニュース この矛盾をご覧ください
A.日中国交正常化
B:日中外交はこうして始まった
C:日中平和友好条約
ついでに
D.日ソ国交回復 共同宣言調印
詳しいことはこちらをどうぞ。
西尾幹二のインターネット日録:日中友好とは

最初の思いに反して、随分長くなってしまいました。(つづく)の記事はできるだけ短くしよう。時間が無い。
否(つづく)は止めにして、この記事を冷戦勝利史観、批判、だけに止めてとりあえずこれで終えることにします。

/////////////追記:2016年4月8日10日/////////////
現代を捉える。
2015年5月27日の放送
ロシアから見る国際情勢~独ソ戦勝70年記念式典と中露合同軍事演習
2014年8月20日の放送
日露関係とロシアの野心

歴史認識から日露関係を検証する
参照:「太古と言う未来」
V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳

追記:2016年4月22日
事情がありこの記事を上にあげます。この記事は本来3月27日の記事です。
最初の思いに反して、この記事を冷戦勝利史観、批判、だけに止めてとりあえずこれで終えることにします。と3月30日の記事の最後に書いていますが、やはりこれでは、話が完全に横折れしたままにおわってしまいますので、正論の座談会(冷戦勝利史観)から飛び出して、次に進みます。江崎道朗氏は「戦前から中国共産党に操られてきた日本の左翼勢力」(「正論」平成27年9月号)という素晴らしい記事を書かれています。「きっかけは日清戦争だった」という小見出しではじまるように、第二次世界大戦からではなく、日清戦争から始まっています。「正論」の過去記事を推薦しますが、入手困難な方のために、江崎氏の該当部分の講演(本ほど詳しくはない)を見つけました。これを次の記事にリンクしてあげてみます。

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フランス三昧 篠沢秀夫著

フランス三昧 篠沢秀夫著 p.212~p.217
42.敗戦・占領の心の傷の処置はこれから
(打ち込みが苦手なので、極力そぎ落としての引用となります。省略を知りたい方は、実際の書物を手にされることをお勧めします)

...1940(昭和15)年5月から6月のナチス・ドイツの「電撃戦」に国土の北半分を制圧されて、第三共和国は、駐スペイン大使だったペタン元帥を呼び戻して首相とし、降伏した。...星五つのペタン元帥から見ればこのロンドンへ脱出した時点のド・ゴール将軍は、全軍への降伏命令の違反者となる。国民全員力を合わせて敵の支配に耐える、それがペタンの立場だった。...そして1944年9月、連合軍がパリに迫ると、ド・ゴールはパリ進撃をわずか一個師団だけのルクレール将軍の「自由フランス」軍に任せることを連合国最高司令官アイゼンハワーに要求。オーケーを取る。...ド・ゴール将軍は凱旋門からシャンゼリゼ大通りを群衆に囲まれて行進する。この瞬間「自由フランス」こそ正統なフランスであり、ずっとそうだったのだ、という神話が確立する。大芝居だ。...だが不幸にも、この神話の裏側で「フランス国家」関係者は売国奴となってしまい、多くの血が流された。「フランス国家」の首相ラヴァルは裁判により死刑になった。だが裁判なしで、リンチのように殺された人数は7万にのぼると、文壇の大御所でレジスタンスの文化面を支えたジャン・ポーランは1946年に書いている。モーラスはペタンと同じ終身禁固刑。...かくて「レジスタンスを行い、それを支援しつつ占領者と対決したフランス国民」という神話が生まれ、ド・ゴール系にせよ共産系にせよレジスタンス実行者は栄光に輝く。...フランスは二つの恐ろしい戦争から本当には回復していない。...いずれにせよフランスは、すべてが終わった時に内輪で殺し合いを始めた唯一の国である!...実情を知らず一方的な神話だけ聞かされて育つ戦後生まれの世代は、当初から傷つけられた心で育っているのだ。まさに日仏共通の問題ではないか。

引用の引用も含む。追記するとこの42の出だしはこうである。

全面的敗戦。何年続くかわからない外国軍隊による全面占領。その経験はこころの傷である。それを正面から扱うか、誤魔化すか。ガーン。日仏共通の問題である。...

神話と言う言葉を使われているが、捏造である。何故これを引用したかと言えば、戦後歴史を捏造したのは日本だけではないということを記したかったのだ。同じ敗戦国として、フランスと日本は共通の体験をしているのだ。大戦終了後、戦勝国となったフランスは、大日本帝国もアメリカ合衆国も承認した「フランス国家」の4年間の祖国を占領下を過ごした人々ともども断罪したのである。極端な言い方をすれば、英雄と非国民に国民を分断したのである。

Libération de Paris août 1944
ダンスシーンのバックに流れるのは、1939年にヒットしたAlbert Préjeanの Dédé de Montmartre
Tel Quel Japon過去記事

第33SS武装擲弾兵師団
このwikipediaは読み物としても感動ものである。
the last fighters
honneur aux douzes de la 33 emme waffen ss charlemagne
Christian de La Mazière:wikipedia
Christian de La Mazière : Correspondances
そう言えばdalidaのこんな歌があった。歌詞和訳

La collaboration sous vichy - Documentaire (1/2)
La collaboration sous vichy - Documentaire (2/2)
Pétain :Pétainを通過して思考が半回転すると「戦争と国民」の関係理解が驚異的に深まる筈だ。
Maréchal nous voilà

詩集「2N世代」でMarcel Ophuls監督のdocumentary映画「The sorrow and the pity」を取り上げました。

・・・・・以上は2012年6月29日・・・・・
・・・・・追記:2013年6月11日・・・・・
「怒る者たちとは、怒りの矛先とは」などいろいろ考えさせられるので追記することにした。
「丸刈りにされた女たち」平稲晶子見つけた場所

Bankrupting the Enemy: 日本経済を殲滅せよ (2)

最近多くの書物、およびその著者自身による講演のVideoを数多く紹介してきている。紹介しないものも含めると1日3本ほど立て続けにVideoを見ることもある。今の更新速度で行くと、どこの誰が何をテーマに話したか、頭の中でぶつかって砕けて溶けて流れてしまいそうな、状況に来てしまった。そのなかで一番資料的信頼性と情報的価値が高いと思われるのが、タイトルにある「Bankrupting the Enemy: 日本経済を殲滅せよ」である。今日は簡単にこの書物から重要点を引用することにした。復習である。そしてこの復習こそ大切だと改めて思う。

1.Japan was building a war chest right under their noses in lower Manhattan. It began when they yanked their gold deposits out of London in 1938, and it continued with the proceeds of these excess gold sales to the Treasury. And they hid those dollars at 120 Broadway in an account at the New York Agency of the Yokohama Specie Bank, this was Japan's largest overseas bank, nominally private, but actually government controlled.

2.By the end of 1940, Washington understood that Japan had hidden up to $160 million as a war chest. This was equivalent to three years of oil purchases, for example. By January 1941, Japan knew the game was up, it stopped shipping gold, and it raced to spend those dollars, or to get them out of the United States before the freeze.

3.A bigger step came in July 1940, after the fall of France, when Congress in a rush empowered Roosevelt to restrict exports of any commodities needed for defense that were in short supply.

4.The Yen itself, however, wasn't convertible except in the Yen block, which meant the Korea, Taiwan, Manchuria, and North China, but the Japanese Empire had almost no war commodities that Japan needed.

5.Harry Dexter White, who was Morgenthau's resident genius and another power grabber, urged him to freeze Japan's dollar assets before the secret stash got away. But more importantly, F.D.R. appointed a new Assistant Secretary of State, Dean Atchison.

6.Atchison pushed to freeze Japanese assets through invoking the Trading with the Enemy Act. And in March 1941 he even got regulations drafted, but again, nothing happened. The Treasury, the customary administrator, was distracted by funding Lend-Lease.

7.In April 1941, these various study teams wrote 37 documents entitled, The Economic Vulnerability of Japan in -- and then you insert oil or copper or iron. Almost all of these studies advocated halting trade. Some of them cleverly suggested indirect ways to hurt Japan.

8.The most intriguing study was one on phosphate and pot ash fertilizers because Japan was the world's most intensive user of fertilizers. They predicted that harvests of wheat and other grains, except rice, which depends on nitrogen that these harvests would collapse after two years of embargo and this proved right on the mark during the war. By mid-war the grains were slumping badly.

9.In June 1941, Roosevelt froze German and Italian assets, just as he had previously frozen the assets of conquered countries to protect them from the Nazis. U.S. Intelligence reported that Japan would occupy Southern French Indo-China, threaten Singapore, and when it did, Roosevelt finally invoked the Trading with the Enemy Act on July 26, 1941 and froze Japan's assets and the British and Dutch immediately did the same.

10.Well Atchison, who was now the king pin, accused them of hiding dollars in Brazil and whisking currency out of New York bank accounts, which was true in a small way. The Japanese offered to bring dollar bills from the Shanghai free market. Denied. Or to deliver gold. Denied. They offered to bring silk on a ship that was repatriating Americans. Denied.

11.The scheme got as high as Vice-President Henry Wallace, who Desrenine had particularly attacked as a Communist-Fascist socialist, but he was the czar of economic mobilization and what did Wallace do? He referred it of course to Dean Atchison

12.The final squeeze on frozen dollars that Japan failed to extract from its bank accounts, which were then down to $30 million, came in November 1941. The Yokohama Specie Bank in New York was going broke. It owed interest on Japanese bonds owned by Americans, and it needed funds to pay diplomatic salaries and such, but it could not recover $19 million that it had advanced for raw silk that arrived here in warehouses before the freeze

13.So bankruptcy of the Specie Bank loomed no later than the end of 1941. This was the last straw. The Japanese diplomats realized they would not unlock any dollars to spend, not ever. Meanwhile, the negotiations between Ambassador Nomura and Cordell Hull dragged on. America's demands for its four principles, mainly involved rolling back Japanese conquests in Asia, and Japan's major demand was to loosen the freeze and resume some trade. And as you know, Japan was meanwhile plotting the attack.

14.I discovered an unpublished study 500 pages long, which was written during the war, 1943-1945, by a joint team from the OSS, the Office of Strategic Services and the State Department. The title is, The Place of Foreign Trade in the Japanese Economy. The principle author was Arthur B. Hershey [spelled phonetically], a young Federal Reserve economist, who was born in China, but educated at Yale and Columbia. It attempted to predict Japan's economic fate five years after losing the war, but, and this is important, it was based entirely on data from the early and mid 1930s, which was the only factual information available here at that time, so I saw fit.

15.So that brings me to a final speculation. Was there any course open to Japan other than the slow strangulation or war? During the Tokyo War Crimes trials, high officials insisted that those were the only two choices, but in my imagination Japan might have negotiated to withdraw from China gradually in return for some thawing of the freeze. It might have renounced the alliance with Germany, especially after Hitler began to lose. It might even have joined the Allies against Hitler. (この結論部分だけは納得がいかない。日米交渉でそうなるように恥も外聞もなく努力した。またドイツが敗け始めたからと言って三国同盟を破棄する等という破廉恥な背信は、日本人はしない。利害が一致し、味方してくれたのはドイツだし、インドシナに望みをつなげたのも、ドイツのおかげだ。ドイツと敵対したからと言って、連合国側に拾われるわけもなし、また連合国側には、日本を廃国にして植民地にする以外日本の利用価値はない。つまり連合国側は国家としての日本を同盟国として戦力として全く必要としていない。おそらくこのあたりは著者も一つの仮定として述べているだけで本気で言ってるわけではない。それは後の質疑応答で明白になる)
追記:2012年1月24日:手嶋龍一氏はNo.15の結論部をこのように「釘を刺している」と捉えられているが、あくまでも仮定法を使った仮定で単なる思い付きの仮想にすぎない。ここを誤読すると、著者に対して読者の敵意を喚起する結果になるので、要注意。この本の結論は以下の質疑応答で明瞭化されている。):
追記:2013年1月17日 手嶋氏の誤訳についての解説

質疑応答からの引用。Ed Miller:
Did I come to think that Pearl Harbor was more inevitable because of the severity of the controls? I haven't actually thought about that, but I think I'd have to say yes because I realized there was not only an oil embargo, which a hundred other historians have written about, but there was this dollar freeze, which was really much harsher than just embargoing particular commodities. After all there was other oil in the world; South America produced oil, Mexico, Peru, but without dollars Japan couldn't do anything.

日本経済が開戦前に既にいかに殲滅状態にされたか、経済の面から初めて明らかにした、という1点を取り出しても現代人必読の書である。資産の凍結などというのは、強盗であり、富の略奪である、そうして足腰が立たないようにしておいてから、真珠湾誘導である。また引用からは省いたが、日本のまともな貿易をあの手この手でいかに窒息させてきたか、本書には詳しく書かれている。ハルノートをたたきつけられて、などという癇癪持ちのような心理的開戦原因は、そろそろ退場させた方がいい。

・・・・・追記:2012年1月23日・・・・・
7,8日前のラジオ番組で「有吉佐和子」を取り上げ再放送していた。彼女の資料のどこにも書かれていないが、父親が横浜正金銀行注目:横浜正金の創設は1879年、1882年に設立された日本銀行より3年も先んじている)のエリートであったことがわかった。父は世界中に赴任し彼女も外国で生まれ育った、帰国子女だということだ。だから日本に関しての驚きがたくさんあったのだろう。私は彼女の「紀ノ川」に大変感動した記憶がある。和歌山は母方の実家で、「紀ノ川」が実家のモデル小説だと語っていた。昔貿易の仕事をしているときに、外為を扱うのは主に東銀だけだったことが(海外旅行に行く時も東銀でしか外貨を買えなかったような記憶がある=フランスに行くにも2日に分けて予防注射が必要であった頃の話)何故なのか不思議だった。横浜正金銀行(横浜正金はこのように通貨発行権を持っていたのですね)の名はTel Quel Japonを始めるまで耳にしなかったが、その業務を引き継いだのが東銀だということで、その性格がようやく飲み込めた。アメリカの横浜正金銀行にあってそのまま凍結された金額が想像を絶するくらいに巨額だったので、戦前の日本の国の印象を少し変えた。溜りにたまったドルを通貨として使えなくなったとき、凍結を待つまでもなく、貿易が立ちいかなくなっているのだ。亡命したユダヤ人は金や銀や宝石を服に縫い付けていたという話はよく聞くが、彼らは通貨のペテンをよく知っているのだ。考えてみれば外貨だけではない、あなたが持っている円も不換紙幣であり、どこかの国の戦車が粛々とやってきてあれよあれよという間に、首都東京を占拠すれば(政府の信用が亡くなれば)あっという間に紙くずになる。(金、プラチナ、貴金属買い取ります、と今くどいくらいに押しかけてくる「売れ売れ詐欺」が問題になっているのは、ひょっとしたら、その日が近いということかもしれませんよ。)

・・・・・追記:2012年1月30日・・・・・
参照:図書館の専門家が皆彼の友人で、彼自身もコングレス・ライブラリーにコミットしている人物。彼はメンターという語を使っているが、未公開の多数の資料を図書館・コンシエルジュとも呼ぶべき専門家の協力のおかげで、彼だからこそたどり着けた資料も多い。彼の資料をここにメモ帳ファイルにしました。先に、一番資料的信頼性と情報的価値が高いと思われる、と書いた理由をご理解いただけるとありがたい。

正論 12月号 2011年 & 別冊正論 16

(1)正論12月号 & (2)別冊正論

(1)正論12月号
大東亜戦争の読み方と民族の記憶(上)
京都大学教授 中西輝政
○まず文章の引用のある「はなうさぎ」さんのBlogにリンクさせていただきます。(2011年12月31日追記:12月27日にお亡くなりになった花ウサギ様のご冥福を心よりお祈り致します)
Tel Quel Japonでは先月10月「日米了解案」というカテゴリーを創設して、一般に思われているように松岡がせっかくまとまりかけていた「日米了解案」なるものを握りつぶして、交渉を決裂させようとし、日米開戦を強行しようとした開戦派である、などというのは大間違いであることを証明しようとした。さらに三国同盟に関しても既に資料を集めて、それが決して松岡の独断ではないこと、そしてパワー・バランスの点から、ロシアを封じ込めるために、絡みついてくるアメリカを牽制するために、また完全に孤立無援とならないためにどうしても同盟国を必要としたことなどをさらに詳しく実証しようと考えていた。しかしこの中西輝政氏の記事を読んで、その必要がなくなったと、肩の荷を下ろした。中西氏は私の記憶では、以前は松岡のことを

松岡は、日本を意図的に滅ぼそうとしていた、あるいはそのリスクも顧みずに日本をひたすら対米戦争に突き進ませようとしていた、(というふうな捉え方をされていた。おそらく松岡がIPRで演説をしたことがあるので、深く関係していると思われたためだろう。松岡の資料を調べてこのIPRの演説を見てみたが、田中上奏文を偽物だと説明している内容だった。wikipediaなどで、日本は田中上奏文が本物でないことを国際的に解説したとあるが、内容をよく見ると、全部この時の松岡の演説で、つまりは田中上奏文が偽物であることを国際的に解説し、納得させたのはほかでもない松岡で、松岡ひとりの仕事だったことが分かった。他に誰もそういうことはできないのだ。また後に国際連盟で日本の全権大使として大勢の有力団員を差し置いてあの有名な演説の大役が回ってきたのは、このIPRでの演説能力を評価されてのことだと言うこともわかった。私がこの12月号で肩の荷を降ろしたのは、中西氏が以下のように書いておられるからだ)松岡は、日本を意図的に滅ぼそうとしていた、あるいはそのリスクも顧みずに日本をひたすら対米戦争に突き進ませようとしていた、という人物ではない

従来の昭和史は、日独伊三国同盟を締結した松岡を悪者にしてきた。しかし彼は終始、日米開戦を恐れていて、南部仏印進駐にも強く反対していたのである。三国同盟締結は確かに大きな過失ではあるが、そもそも彼は、日本への圧力を強めつつあったアメリカヘの抑止力としてソ連をまじえた「四カ国同盟」を構想していたのである。(も中西氏の記述である。肩の荷を降ろしただけでなく国会図書館などから多数借りていた不要になった書籍をごっそりと即返却した。最近の「日米了解案」のカテゴリー創設及びその中に書こうとしたことは、対中西輝政氏を念頭に置いて取りかかったということを告白しておく。「従来の昭和史は、松岡を悪者にしてきた」これを明記されるには大変な勇気が必要だったと思う。しかしコンクリートのように固まってしまった東京裁判史観に風穴を開けるには、この楔を打ち壊すのが最善の策なのだ。正義の女神が過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するためには。

また西園寺に関しては

最後の元老、西園寺公望の孫、公一(きんかず)も、その工作網の一員だったと思われる。言うまでもなく、西園寺は盧溝橋事件が起きた一九三七(昭和十二)年以降、尾崎秀実と二人三脚で動き、ドイツ大使館に仲介を頼んだ日本と中国国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)をつぶした。...
そしてその西園寺が実は、先の怪しげな「日米交渉」に関わっていたのである。アメリカの民間人からの素性のよくわからない交渉の打診は、井川が知り合いの西園寺に伝え、西園寺が首相の近衛に伝えた。そして、近衛が交渉開始を決断したのである。(西園寺が怪しいと考えておられるようだ。少し長いがこのYou Tubeを中西氏にお礼として提供したい。西園寺が登場する、この顔、この言葉、中西氏がおっしゃるように「俺は尾崎のアルター・エゴだ」と自分で告白している、わかったところで日本において警察ごときにこの西園寺を逮捕出来まいという表情が読み取れる。(今はやりの言葉を使えば、ドヤ顔そのものである)中西氏はどう判定されるだろうか?

参照:コミンテルンの工作から見る第2次世界大戦 4年前

山田 この尾崎の主張に動いた松岡洋右外相はしつこく即時参戦を繰り返し、単独で天皇にまで上奏した。

(松岡は北進を上奏したのであって、尾崎の主張に動いたわけでも、即時参戦を主張したわけでもない。なかなか興味深い話し合いなのだがこのような、無茶苦茶が時々ある。)

あと少しで「正論」新年号が発売され、中西氏の「大東亜戦争の読み方と民族の記憶(下)」を読むことができる。米国の心理作戦で洗脳され思考停止に陥った昭和の歴史がいよいよ覚悟を決めて手術台に上げられるのか、それとも手術台には相変わらずミシンとこうもり傘がのせられたままなのか、緊張している。

・・・・・2011年12月9日・・・・・
花ウサギさん以外にこちらにもリンク

各種の対日工作が、天皇陛下にまで誤った情報が吹きこまれるほど日本の中枢を完全に巻き込んで成功裏に進んでいなかったら、事態は大きく異なっていただろう。

中西氏の今回の記事が画期的なのは、この部分だ。松岡を排除せよと天皇陛下の発言があったために、恐れ多くて誰も触れなかった。だから70年間も「せっかくの日米交渉の努力が松岡によって握りつぶされた」と定着したままになっていた。さらに富田メモもある。今回の中西氏の記事によって、あるいは西木正明氏の「パールハーバー」によって、初めて日米交渉なるものの実態に目を向けた方もたくさんいらっしゃるだろう。よく言われるように近衛内閣はスパイの巣だった。中枢のほとんどが、騙される状況にあった。誤った情報は常に吹き荒れていたのである。尾崎は近衛のブレーンとしてその周辺で絶大な信頼があり「南進」に向けてのえげつないまでの工作をし、周囲を意のままに操っていた。尾崎の逮捕(その3日後に第三次近衛内閣崩壊)は松岡が排除されてからおよそ3箇月のち、司法省からゾルゲ事件が発表されたのは、それからさらに7箇月のち、真珠湾の日からすでに5箇月以上が経過していた。

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(2)別冊正論
世界のモンゴル学者に愛された〝無冠〟の才媛 磯野富士子
東洋史家 宮脇淳子
○当Blogコメント欄でその著作が話題になっている宮脇淳子氏、You Tubeの講演も楽しい。その宮脇淳子氏が別冊正論で磯野富士子氏を取り上げた。磯野富士子氏が渋沢栄一の曾孫である、と知って吃驚。Tel Quel Japonでは今までに2度磯野富士子氏の名前が出てきた。Owen Lattimore及びHerbert Norman関連である。一体何ものなのであろうか?という不審の目で見てきた。Owen LattimoreもHerbert Normanも日本敗戦後の天皇処遇に関する過激発言で、さらにHerbert Normanはノーマン憲法と呼ばれる日本憲法に関して、そしてまた近衛文麿の自殺の導火線に火をつけた人物として、歴史に興味のある保守派の日本人にはよく知られている筈である。
Tel Quel Japon過去記事1:磯野富士子
Tel Quel japon過去記事2:磯野富士子

参照: Owen Lattimore interviewed by Caroline Humphrey, 21st May 1983 – Part 1
参照:Owen Lattimore interviewed by Caroline Humphrey, 21st May 1983 – Part 2
参照:Owen Lattimore, the first target of Senator McCarthy

ラティモアと磯野富士子の間には岸恵子がゾルゲに向けるような深い共感が存在したのだろうか?宮脇淳子氏にとってのラティモアもやはり岸恵子にとってのゾルゲなのだろうか?信じがたい。少なくとも、磯野富士子氏にとっても宮脇淳子氏にとっても、そして岸恵子氏にとっても赤狩りのMcCarthyはアメリカの狂気であり、ゾルゲもラティモアも愛すべき被害者だという共通認識があるのだろう。モンゴル研究家の宮脇淳子氏にとってラティモアは身内感覚の人、MaCarthyは敵対すべきファシストといった認識ではないだろうか?それともう一つ、渋沢栄一の曾孫である磯野富士子氏が夫と別居してまで何故Lattimoreの学術的・生活的面倒までみようとされたのだろうか?Normanが日本の知的上流階級と強い信頼の絆で繋がっていたように、Lattimoreも日本の知的上流階級の間では、信頼できる人物として何か歴史的パイプでもあったのだろうか?
参照:Tel Quel japon過去記事:Owen Lattimore
参照:Tel Quel japon過去記事:Owen Lattimore
参照:Tel Quel Japon過去記事:Herbert Norman
参照:近年の論壇

中西輝政氏の主張では、ヴェノナ文書やミトロヒン文書により、ジョセフ・マッカーシー上院議員の”赤狩り”が寧ろ、カウンター・インテリジェンスとして正しかったとしている。

・・・・・追記:2011年11月30日・・・・・
渋沢栄一の曾孫である磯野富士子、どうなんだろう以下のことをご存知だろうか?
Owen Lattimoreに関して、ひとつは、日米開戦時に蒋介石を通して、Rooseveltに強い口調で開戦をけしかけさせている。もう一つは:自書「アジアにおける解決」のなかでこう述べている。

天皇と天皇位継承の資格のあるすべての男子は、中国に流して抑留し、国連の監視下に置かれるべきである。

岩波現代文庫「昭和天皇1945-1948」高橋絃著 P.21
終戦後の天皇の処遇に関してラティモアはアチソンと同様”中国派”の代表格であり、それに対する”知日派”にはグルーやボートンらがいた。

渋沢栄一が日本IPR設立の中心人物で評議員会会長だったこと、Owen LattimoreがIPRの機関紙Pacific Affairesの編集者だったことを考えると、磯野富士子氏とOwen Lattimoreの関係はモンゴル研究だけでなく、ずっと古くから家族的な接触もあったのかもしれない。Normanと朝吹登水子氏が軽井沢繋がりの幼馴染であったように。

問うべき戦後とはなにか

 僕らは生まれた直後から「敗戦」というものの”無機質の言語”を感知し続けてきた筈だ。「敗戦後の国民」という”無音のシラブルの意志”を誰が一体心地よく感知するだろうか。肌に植え込まれそうな多くの言葉をひたすら押しのけようとした僕らは、外部が僕らに引き受けさせようとした諸々を、かたくなに拒んできた。突如として転覆させられた(風土の生命)を、否定された(流れつづけてきた過去)を、断絶した対岸のものとして見つめながら「ちがう、ちがうんだ」「嫌だ、いやなんだ」と叫ぼうとしながらも、引き継いだ生命の重みから逃れられなくなる時、僕らは豹変せざるを得なかった前世代の不安と混沌の残響を、どう救いあげればよいかを考えあぐねなければならぬのが常だった。途切れた糸を途切れない糸でどう補うかに戸惑わなければならなかった。打ち崩された「精神文化の方向性」を、ただ持続する(生命の流れ)で、どこへどう運び切るか。少なくとも僕は、僕たちの時間帯の志向を、供え物ではない、僕たちの体質からにじみ出る欲求に指揮させたいと願ってはいた。
 けれど対岸に新しい橋を架けることも出来ず、ついには、対岸からの種子を風が運んでくれるのを期待する気力もないまま、荒れた大地の上に各々の仮住まいを建てなければならない季節を迎える羽目になっていた。(...)

命を懸けて真実だと信じきっていたものが目のあたりに崩壊するとき、人は次の一瞬からの時刻をどう生きるのだろうか。
「日本軍閥の侵略主義」という、結果から照応された規定から★「精神風土の破壊と無力化」を目的とした占領政策★が約束した「罪悪感」という次からの時間のためのパスポートを持って、前の世代は僕たちを産んだ。深い謝罪によって現在を肯定することができると思った。
 僕は晃という生命の継承を否定する他者から「裏切りと背徳と快楽」を得ることによって、反自然あるいは虚構という裏返しのパスポートを持って新しい真実を生きようとしている。
「似たようなもんじゃないか」
時間は突然止まりはしない。人間を超越して絶対的に流れ続けている。
 僕は名大の芝生の上で僕の身体を回転させた。
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四城亜儀著「帰ろう愛の天使たちーまたは無音のシラブルの意志について」より2箇所抜粋
1975年 社会思想社刊 現代教養文庫 863
小川和佑編 「わが1945年ー青春の記録(1)」収録

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このような形で、昭和精神史における戦後、あるいは昭和精神史の青春像にみられる精神の形成を広く読者一般に、戦後を考察する核として提出したい。したがって、この一冊は文学的アンソロジーであると同時に、精神史的アンソロジーといった性格を備えているものである。
(...)1975年初秋 小川和佑「編集ノート」より(...)

小川和佑氏編集の社会思想社刊、青春の記録3冊は
「無名者にとっての修羅」青春の記録(2)
「埋没した青春」青春の記録(3)と続いて1975年に刊行された。
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