TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

日米諒解案 (3) 未完

少し視点を変えて日米開戦前をみてみよう。
ゾルゲ事件:ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている。逮捕開始は1941年9月。
Spy Sorge (スパイゾルゲ) 1/10 & 2/10 & 3/10 & 4/10 & 5/10 & 6/10 & 7/10 & 8/10 & 9/10 & 10/10
西園寺公一、牛場友彦、田中慎次郎,石井花子等がFilmのなかで顔出しインタヴューに応じていたのには驚いた。
ゾルゲも尾崎も目的を達成したのだ。尾崎は国家の中枢に取り入って北進論を退け南進を決定することによって、日米戦争を勃発させることに成功し、ゾルゲはその情報を提供することによって対独戦の敗北からソ連を救い出したのだ。日本国内では北進論者の松岡が排除され、南進が決定、対米戦争に取り込まれていく。
参照:Kinkazu Saionji & 西園寺公一
参照:Eugen Ott (ambassador) & ゾルゲ諜報団
参照:Statement Handed by the Ambassador in Japan (Grew) to Mr. Tomohiko Ushiba, Private Secretary of the Japanese Prime Minister (Prince Konoye) [64], 6 July 1941:Grewから牛場友彦に手渡されたもので、まさか対ソ戦に突入するのではあるまいな、そうでないという確証を近衛自身から合衆国大統領に伝えて安心させられよ、と言う内容。Grewは松岡でなく牛場に渡している。理由はよくわかる。外務大臣松岡はすでに嫌われ者で蚊帳の外に置かれているからだ。スターリンが知りたがっていたこと、ゾルゲが知りたがっていたことを、何故ルーズベルトが、日米交渉の真っ最中にこれほど異様に気にかけるのか?ルーズベルトの向こうにもゾルゲのようなソ連のスパイがいたからだ。

いま少し視点を変えて日米開戦前をみてみよう。
Harry Dexter White 1:Tel Quelの過去記事にさんざん書いたことがここでは総合的にまとめられている。

White used his position in the Treasury Department to develop a hostile U.S. policy toward Japan. The reason was to distract Japan from their plans to attack the Soviet Union and draw the U.S. into the war as an ally with the Soviet Union.

真の敵であるロシアを攻めさせず、いつの間にか日本を対アメリカ攻撃に走らせる、つまりゾルゲや尾崎達とWhite達米国に巣くったスパイとは、同一目的で動いていたのだ。日本が見据えていた敵は常にロシアであった、にもかかわらず日英米中独国に巣食ったロシアのスパイ達が仕組んだ日米交渉という餌についふらふらと食いついたがために、はっと気がつくと罠にはまって、思いもよらなかった米国(真珠湾)に爆撃機を飛ばせていた。比喩的にいうと、穴を掘ったのはゾルゲ、最終的に穴に突き落としたのはWhiteだと言えよう。
(追記:2011年10月20日)
そもそもの餌である非公式の,出所を転倒させた,道に投げ出されたのも同然の日米諒解案は、箱に入れられ包装されあたかも両国で正式に諒解されたかのように装って帰国した松岡に提出された。「本提案は米国の悪意七分善意三分」と初見で胡散臭い餌であることを見抜いた松岡はさすが大日本帝国の外交官である。すかさず矛盾点を指摘していく。
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参照:Harry Dexter White 2 & Harry Dexter White 3 & The Silvermaster spy ring:
参照:Harry Dexter white : Tel Quel Japon過去記事 : Harry Dexter White :
アジアの解放、安定した大東亜建設のために八紘一宇の理念の下、まず満州国を独立させた日本が結果として戦った戦争は大東亜戦争であった筈だ。その大日本帝国が何故広い太平洋でアメリカと戦争を始めてしまったのか。日本人はその問いを忘れてしまっている。その意思も当初は全くなかったのに、何ゆえに真珠湾に向かって攻撃の口火を切ったのか、日米交渉というペテンの餌に釣られて、追い詰められパニックに陥った鼠として何故大猫に噛み付いたのか?日本人はその問いを忘れてしまっている。
やれ松岡が諒解案を握りつぶしたから、やれハルノートをたたきつけられたから。松岡の構想は早々と無視され失脚させられているし、何度も言うがハルノートは、国家がヒステリーを起こすような性質のものではない。Strictly confidential, tentative and without commitmentと明記されている。一説にはこの一行がが何者かによって消されていたという説もある。たたきつけられて怒り心頭に達したと信じておられる方は、おそらく消されたものにしか接しておられないに違いない。日米交渉という餌は最初から最後まで悪意ある虚偽の罠だらけなのだ。

日本人やアメリカ人にそれを気づかせてくれたのはずっとあと、吉川光貞やCharles A. Willoughbyの働きがなければ、あるいはその働きを検証しない限りは、催眠術のような日米交渉の実態は理解できないだろう。
参照:Tel Quel Japon 過去記事:吉川光貞
参照:Tel Quel Japon 過去記事:Charles A. Willoughby:
そして考えてみれば、転向した元スパイだったElizabeth BentleyやWhittaker Chambersの告発がなければ、全体像は全く解明できず、ああでもない、こうでもないと、今よりももっと馬鹿げた推測が蔓延り、歴史の解釈は深い深い出口のないトンネルに進み続けて行っただろう。ただ日米開戦に関するあらゆる文章の中で、Elizabeth BentleyやWhittaker Chambersを検証した上でのものが、日本にはあまりにも少ないのは残念に思う。
参照:Tel Quel Japon 過去記事:Elizabeth Bentley
参照:Tel Quel Japon 過去記事:Whittaker Chambers
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今日Whittaker Chambersという人物にスポットを当てた番組をまた見つけた。一時間が二本、二時間が一本、全部で4時間。私は時間の都合で今日は一時間を一本しか見ていないが、今までよりもWhittaker Chambersを広角的に見られるようになった。
参照:Whittaker Chambers: A Biography カスタマーレビュー

///////////追記:2011年10月25日/////////////
1941年7月に創設されたOSSの前身COIによって既に、戦後日本の占領プランがねられていたことが分かっている。日米交渉などと他国の善意や信義に縋り付いて交渉しているつもりの開戦回避努力など、今から見ればだが、聞いて呆れる、たしかに日本は「よしよしとあやされている赤ん坊である」。いつまでも、いつまでも「ハルノートを叩きつけられた」ので堪忍袋の緒が切れた、などという次元で思考している場合ではない。
ハルノートで挑発された訳ではなく、そのまえからずっと挑発され続けていた。(軍艦の配備から見て、そしてアメリカの日本に対する利敵行為から見て、パールハーバー以前にすでに戦闘状態であったので、宣戦布告の必要はない、というたしかパール判事の発言があったと記憶している)ルーズベルトと近衞の会談で、100%の譲歩をしても(ハルノートをのんだとしても)、戦争回避の可能性はゼロ。アメリカは先の先を読んで、戦後世界支配まで考えている。(アメリカとひと括りにしてもいいかどうかはわからないけれども)。ハルノートは単に戦争準備完了のお知らせ、さあ、いらっしゃいという暗号であったと見たほうが良い。
参照:THE SHOWDOWN WITH JAPAN August-December 1941
参照: U.S. ARMY OVERSEAS DEPLOYMENT, 17 OCTOBER 1941

日米諒解案 (2)

ところが、これはアメリカ政府の提案ではなかったのである。それなのに、首相ばかりでなく連絡会議の全員、いな外務当局までアメリカ政府の公式提案だと錯覚し、野村・ハル会談を、日米諒解案をファイナライズするための本格的外交交渉であると信じ込んでしまった。ここに重大な錯誤があったのだが、このような事態となったのも野村大使がミスリードした結果にほかならない。
それに、野村はハルが最も重視した四原則については一言も報告していないので、満州事変以来の日本の国策を全面的に放棄することが、日米諒解案の交渉に入る絶対的条件になっている事実が、日本政府には通じていなかったのである。(「日本外交史ー23 日米交渉 P.84 )
なお、ウォーカー長官のハル宛のメモには「松岡は罷免されることを恐れて不本意ながら諒解案による交渉に同意したが、まもなく失脚しよう。また野村が中立条約を提示したらハルに拒否してくれという希望を野村から申し入れてきた」と記してある。(”Foreign Relations Far East". vol.Ⅳ p.180) (「日本外交史ー23 日米交渉 P.116)

追記:2011年10月16日
上記の中立条約であるが、これは他のどの資料を調べても記載がない。歪曲のために無視されたものだ。驚くなかれ、野村自身がハルに拒否してくれと申し出ている中立条約とは、松岡が野村に訓令した「日米中立条約」のことである。(上記と同書 p.112)
「世界的非常時の折から、このようなこともやってみてはどうか。試しにやるのだから乗ってくればよし、乗ってこなければそれでよし、応じてくれれば結構ではないか」と言って(松岡は)自説を固執した。
この辺りの松岡外交を詳細に検証すると、彼を対米強硬派だと記することは、あからさまな歴史歪曲のための捏造であることが誰にでもわかる。アメリカの参戦さえ避けることが出来れば、最大の暗雲をふきとばすことができるのだ。そもそも三国同盟とはソ連の横暴に睨みを利かし、敵対行為をするアメリカ・イギリスを牽制するための条約である。
日米諒解案のような内容は一貫して、アメリカの望むところであって、日本から持ちかけるような内容ではない。それをこちらから持ちかけ、アメリカからの申し出のように細工した。帰国して最初に諒解案らしきものを見せられた松岡は、それが英文で書かれていないことに気づくのだ。繰り返す催促の中で、野村はしぶしぶ後で作成したものをようやく届ける始末だ。スパイとは言わないまでも、野村は完全な利敵行為者である。しかし戦後に教育された史観では、平和主義者の野村が、対米開戦をさけようと、努力したのに、松岡が握りつぶしたということになっている。否、当時から諜報活動があって実際松岡は罷免されたのであるから、野村以外にもそういう風評工作をした水面下の大きな組織が、存在したとも考えることが可能だ。
民間の和平交渉で回避できるような戦争なら、外交など不要だ。日本に必要なのはなんとしても「日米中立条約」であり、民間でも交渉するならそこからスタートすべきであり、繰り返すが塩をかけられたナメクジのような、敗戦交渉のような、相手が要求する前にこちらから相手の要求を想像して書きたてた、しかも実現性の乏しい、相手の時間稼ぎの、このような偽文書からはじめてはならない。
参照:残念なことに日本の受験生はこういう風に歴史を学ぶ。
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1941年
2月11日:野村大使ワシントン着任
4月13日:日ソ中立条約調印
4月16日:野村大使より日米諒解案接到ス
4月22日:松岡外相帰国
5月12日:我方対案ヲ提示ス
6月21日:米政府対案ヲ提示ス
6月22日:独ソ開戦
7月2日:御前会議
7月15日:我方対案ヲ提示ス
7月16日:第二次近衛内閣総辞職
7月17日:第三次近衛内閣成立
(追記:2011年10月20日 日米交渉詳細年表)

ORAL STATEMENT June 21,1941の文章に記載されているが、これは5月30日に野村駐米大使に伝えられたもので、話し合いの上松岡外相がハミルトン東亜局長に(おそらく抗議のために)返却したものの写しである。
・・(略)Unfortunately, accumulating evidence reaches this Government from sources all over the world, including reports from sources which over many years have demonstrated sincere good will toward Japan, that some Japanese leaders in influential official positions are difinitely committed to a course which calls for support of Nazi Germany and its policies of conquest and that・・・(略)
明らかな内政干渉である。三国同盟に対する批判であるが、ここに読み取れるのは、松岡という外相への攻撃であり本心としての罷免要求である。そしてこのときまだ敗戦もしていない日本が、開戦もしていない日本が、敗戦後の番頭さん根性さながらに、唯々諾々と内閣解散までして交渉力のある松岡を、米国にとって参戦に目障りな松岡を(押し競饅頭で)罷免するのである。
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野村大使は7・15日本案を受け取っていたのに、同案をアメリカに提示せず、20日になって、新内閣の交渉方針を示してもらいたいと請訓して、いたく近衛を驚かせるしまつだった。近衛は7・15案を黙って握りつぶされたのだから少なからず失望したのである。(「日本外交史」-23、P.174、P.175)
参照:野村吉三郎文書研究 :これは戦後のものであるが、戦前戦後を問わず、日本よりも米国に理解者を求めようとしていたように思える。強いものに逆らえないのは世の常であるとしても、親米派と言わずに何と言おうか。
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日米諒解案は、どの辺が日米諒解なのだろう。言語誘導にも思える。どの辺が日米交渉なのだろうか?交渉というより叩頭である。これを日米交渉と呼ぶなら、戦う以前から敗北を想定した、せめてお情けをという敗戦交渉に他ならない。それほど戦争を回避したかった、という魂の高貴さ?を讃え、平和の国日本では、こういった敗戦への協力・先取りさえ(どう考えても利敵行為・発想なのだが)、善とされるのだ。戦争は悪であった、しかも日本の戦争のみが悪であったという認識で、日本の歴史教育は固まってしまっている。
「自分は利用されたのだ。自分は常に戦争を避けようとした。自分は常に平和を求めてきた。戦争は嫌だったが、自分にはどうにも出来なかった。あいつが悪いのだ。」A級戦犯は誰一人、こういう最も憎悪すべき畜生のような発言をしなかった。それは日本人の持つ、大和魂の最低限の美学だからだ。自分の行為に責任感と信念があるからこそだ。

・・・・追記:2011年10月17日・・・・
日米諒解案を含め日米交渉のすべてが、アメリカ参戦のための実際は英米の罠だったとも読み取れる。英米が互いにコンタクトを取りながら日本を真珠湾に向かって絡めている。Tel Quel Japon過去記事:William ”Intrepid ”Stephensonがこの交渉の裏で動いたことは過去記事にも書いている。
野村や民間人がそもそも単独で発想・実行できる行為ではない。利敵行為に同意する隠れた集合体が国内に存在したのだろう。それは英米にもたくさん存在したコミンテルンのスパイたちだったのか、はたまた...。
ルーズベルトをこの視点で見ると、ルーズベルトと親しかったと言う野村の超親米ぶり、それゆえの騙されぶりがよくわかる。野村には魑魅魍魎の国際政治を解さない、他国の信義に縋り付こうとするよほど大きなバックがあったのだろう。気の小さい野村駐米大使が非常識にも非常時に辞任を要求する背景が、その意味がなんだか見えてくるような気もする。不思議にもほとんどお咎めなしの、俗に言われる重大な宣戦布告文書ののんびりした交付遅延も、ここに現れたものと同種の利敵行為だともし解すると、ようやく納得もいく。

日米諒解案 (1)

日米諒解案
開戦回避交渉にしても終戦交渉にしても、近衛の日本国憲法と同じで、本人はそのつもりで行動していても、正規のものでない限り、効力を持ち得ない。どころか、時間稼ぎに利用される骨折り損「交渉」である場合の方が多い。それはまた後世、歴史の筋書き捏造に利用される。(ルーズベルトに代わって朝河貫一が草案した日本国天皇に対する書簡などを、日米諒解案は思い起こさせる。朝河とルーズベルトでは、当然根本の発想が違う。日米諒解案にはハルの4原則がはいっていない、満州国承認など絵に描いたもち。朝河が草案したものが天皇に届けられていれば、確かに戦争は起こらなかっただろう。しかし朝河は米国大統領でもなんでもない。)
近現代日本史にはそういう活きなかった開戦回避交渉や終戦交渉はずらりと並んでいるが、実際の公式外交資料をもって検討されたものはほとんどない。空想的私見を入れたものフィクションとほぼ同列である。
参照:開戦回避交渉

・・・・・追記:2011年10月13日・・・・・
日本外交史 全33巻 別巻5冊 という凄いシリーズ本の存在を見つけた。現在3冊手元においている。今日はそのうちの一冊「日本外交史 23 日米交渉 加瀬俊一」(発行 鹿島研究所出版会 昭和45年11月20日刊)を手にしている。資料の塊である。
第一期 松岡外務大臣の時代 第二期 豊田外務大臣の時代 第三期 東郷外務大臣の時代 からなり章としては10章に分けられている。第一期は 第一章 松岡外相と野村大使 第二章 交渉の発端 第三章 日米諒解案の提示 第四章 日米諒解案の紛糾 第五章 日米諒解案の停滞 第六章 松岡外相の辞任 からなる。その間の日米両文の資料も含んでいる。引用したいが全部引用するのは不可能な大書なので、各自手にとって読解いただきたい。松岡が癇癪を起こして日米諒解案を握りつぶしたという通俗的歴史認識は、事実の歪曲であることがよくわかるはずだ。
地位にふさわしい交渉能力のない人間は時に利敵行為に走る場合がある。相手の機嫌を取って自分の置かれた苦境からとりあえずの脱出を無意識に計ろうとする。大臣の挿げ替えは取り返しのつかない失策で、駐米大使をこそ更迭すべきだったのだ。無能な大使に助っ人をおくってまでその人物をその場にとどめたこと。北進を主張する松岡を皆で押し競饅頭をするように追い落としたこと、誰かのご機嫌を取るためにそういう空気が醸造されていたのだろう。アメリカの文書を読めば、南進こそが開戦の直接的原因だと理解できるはずだ。
その後坂を転がるように開戦へとまっしぐら:4回の御前会議
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今日新しいサイトをBookmarkした。その資料の一例だけ出しておく。[昭和16年]12月1日 牧野伸顕関係文書 書翰の部 659-41
国立国会図書館 吉田茂書翰 牧野伸顕宛
見る人がみれば、非常に意味深い、いくらでも汲みだせる重要資料である。
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追記:2011年11月14日
最初から日米交渉などというものは、催眠術に過ぎなかった。それはこれだけを見てもわかる。敵国に加担している、これはすでに攻撃である。What was the Lend-Lease Act?

The Lend-Lease program began in March 1941, nine months before the US entered the war in December of 1941.

こちらもご覧ください。
American Financial Support for the War Before 1941

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