TEL QUEL JAPON

リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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モスクワで粛清された日本人 (青木書店)

「モスクワで粛清された日本人」加藤哲郎著(青木書店)
偶然上記の書物を入手した。
スウェーデン女流作家ハンソン女史として東京に滞在したコミンテルンのスパイ、アイノ・クーシネンの存在を知ってまず驚いた。この人が岡田嘉子やゾルゲにも関わってくる。しがし実際は「モスクワで粛清された日本人」の親ソぶりとその悲劇には、もっと言葉をなくした。あまりに数が多いので、書ききれない。とりあえず上記の書を手にとってお読みいただくしかない。出来る限り手がかりを貼り付けることにするので、興味をお持ちいただけたら幸いである。
アイノ・クーシネン:Wikipedia
オットー・クーシネン:Wikipedia
日中戦争の問題点を検証する:Alphapolis
アイノ・クーシネンに関しては、上記にかいつまんでかかれているので、参照されるといいと思う。

・・・・・追記・・・・・
アイノの協力者は東京朝日新聞の中野記者と「ジャパン・タイムス」の上原記者である。
両新聞で書き立ててもらって有名になり、皇居の園遊会に招かれたり、秩父宮にも会ったりして上流階級からの情報を入手していた。

上のリンクの一部引用にある中野記者はアイノの記述によると中野男爵となっている。「朝日新聞社史 大正・昭和戦前期」に登場する中野姓の記者は中野五郎唯一人であることから、加藤哲郎氏は中野五郎ではないかと推定されている。中野五郎の祖父は貴族院議員で、外国人にバロンと呼ばれる可能性はあると。中野五郎は杉本良吉と府立一中で同級生で「無二の親友」であった。「朝日新聞記者の見た昭和史」や「君は第二次世界大戦を知っているか」は名著として復刻され、今日でも読みつづけられている。(いずれも光人社)但し前書「朝日新聞記者の見た昭和史」には親しかった外国人の中に、エリザベート・ハンセンの名は入っていないそうだ。代わりに中野の他の書には、情報交換をしたり、一緒にバーで飲んだりした国際記者仲間として、なんとリヒアルト・ゾルゲとブランコ・ブーケリッチが登場する。他に学歴、特派員国、1942年の帰国などが書かれてある。中野五郎が魅力的な女流作家を園遊会に連れて行ったり秩父宮に紹介した中野男爵であることはほぼ間違いないだろう。同じ朝日新聞記者とは言え、中野とアイノの関係は、ゾルゲと尾崎のような共謀性はないと思える。加藤哲郎氏も「アイノ・クーシネンは敏腕な国際社会部記者中野五郎の目もくらませ、疑われることがないようなかたちで、着々と日本の上流階級に近づいていたのだろう」とかかれている。
ここまで読んで思い出したことがある。私の記憶がひらめいた。中野五郎とはあの人だ。「真珠湾奇襲は米国の書いた筋書きだった」という帯をつけ、なんと昭和29年8月15日に定価180円で株式会社大日本雄弁会講談社が発行したRobert A.Theobald著「The Final Secret of Pearl Harbor(邦題:真珠湾の審判)」を訳出したあの人だ。後に「真珠湾奇襲は米国の書いた筋書きだった」というテーマでかかれた本は何冊か出て、何度も議論のたびに登場するが、最も早い時期に書かれたのが、また訳出されたのがこの本だ。
参照:Tel Quel Japon過去記事
The Final Secret of Pearl Harbor
クリックしてもう一度お読みいただきたい。今日の記事を読了後にお目通しいただくと、興味は二倍にも三倍にも膨れ上がる筈だ。


旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧
これだけをまとめるのにどれだけの労力を要したかと思うと、頭が下がる。粛清をすり抜けた者の数も想定すると、一体どれだけの尾崎秀美がいたのか、想像する必要がある。岡田嘉子の言葉を借りるなら「スターリンを神様とも思い、小児のような純な心でソヴィエトを愛していた」日本人たちだ。

ハンソン女史は東京滞在中、岡田嘉子と同じ豪華マンションに住んでいた。この本では当然岡田嘉子、杉本良吉に関しても詳しく資料検討がなされている。特筆すべきは、1932年秋、日本共産党指導部は杉本をソヴィエトに送ってコミンテルンとの連絡にあたらせることを決めていた、ということだ。岡田嘉子との「恋の逃避行」を知った宮本顕治は「二人の組み合わせはさすがに意外だった」と語っている。恋は決行の理由ではなく単に弾みをつけたに過ぎないことが見て取れる。

最後に加藤哲郎氏自身の「モスクワで粛清された日本人 」に関するペイジがnet上にあったので、リンクさせていただくことにした。
モスクワで粛清された日本人 : 加藤哲郎

なを今回この書物を紹介したのは、コミンテルン日本支部、日本共産党の内部史を究明するためではない。あくまでも、世界の歴史教科書に於いてファシスト呼ばわりされる日本、世界の国々から悪意満載の攻撃を受けた日本、戦後も繰り返し自国民からさえいわれなき屈辱的非難を浴びせられる日本、その原因を明確にし、その日本にとりついた、どうにもこうにも動こうともしない無知・無理解及び錯誤・捏造の煤を完全払拭するための一環であることを忘れないでいただきたい。

この本のp.275に「反ファシズム人民戦線と共に始まった粛清の嵐の悲劇」という小見出しがある。マリオネットと人形遣いの指が同時に見えるではないか。

以上は2010年5月15日
以下は2011年1月14日:追記
アイノ・クーシネン及びゾルゲ事件詳細 : 加藤哲郎
上に「コミンテルン日本支部、日本共産党の内部史を究明するためではない」と書いているが、この究明は、急務かもしれない。歴史に潜んでしまった重要な陰が、浮かび上がるような気がする。多くの無知や無視の暗闇に、光があたり、歴史解釈に大きな働きを見せるかもしれない。

・・・・・・・・・・・
The Final Secret of Pearl Harbor
推量のしかも私事で申し訳無いが、パール・ハーバーが筒抜けだったと言うことは、いつ頃から語られるようになったのだろうか?私は、半世紀以上前(1954年)からそれを信じて疑った事がない。海軍の研究をしていた父に、軍人の欧米人からある書物が届いた。父がそれを手にして、飛び上がって喜んでいた姿を、まだ幼稚園児だった私は覚えている。すべてに無知な幼稚園児のわたしが、何故その説をその年齢で知っていたのだろうか。思うに、父があの時手に入れたのはこの本(The Final Secret of Pearl Harbor )だったのではないだろうか。

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テーマ:歴史認識 - ジャンル:政治・経済

日独伊防共協定 The Anti-Comintern Pact

○ スペイン内戦
1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャ(左翼共和党)を大統領、サンティアゴ・カサレス・キロガを首相とする人民戦線政府が成立した
○ 人民戦線
○ 人民戦線事件
上のリンク三連発のあともう一度これを聞くと、(先ほど単純すぎると疑った)何かが今度は真実を照らし出す筈だ。

日独伊防共協定
何かの偶然で日独伊防共協定がThe Anti-Comintern Pactと言語化されていたことに気づいた。スペインの内乱も日中戦争もうしろにコミンテルンの工作があることに、早々と気づいていたのが枢軸国だったということだ。歴史に解釈されているようにファシストの国々が集まったのではなく、コミンテルンの工作に気づき、手を打とうとした国々が集まったのだ。上の「これを聞くと」でも言っているように、毛沢東など、ソ連の傀儡で、日中戦争もユン・チャンが言うようにソ連の、コミンテルンの例の筋書きなのだ。日本をファシスト国家とひとまとめに認識した国は、その国民はすでに赤化していたことがわかる。赤化と言うより、より鮮明に言えば工作員レベルに洗脳されていたといえるだろう。

改めて感じることが二つある。
その一。日米開戦前にゾルゲや尾崎を逮捕した、日本警察の優秀さだ。この「上海の陰謀」がアメリカで取りざたされるのはようやく1951年だ。それ以前、終戦後G2で活躍したウィロビーは日本でゾルゲ事件を知りスメドレーを逮捕しようとするのだが、逆に告訴されてしまう。
駄目押し参照:歴史道楽
その二。毛沢東の中国を政治の内側で体験したユン・チャンとその夫であるイギリス人の歴史家の書いた「マオ」は日本人こそが大騒ぎすべき書物なのに、何故歴史家達は頭から否定的なのだろうか。ユン・チャンに会いに行き、資料を眼にし、そこからさらにその方向を深めようという日本人の歴史家が何故存在できないのだろうか?歴史の書き換えが怖いのか?正しい歴史観を打ち立てるチャンスだという思いは、存在しないのか?目に見えない左右の圧力があって、日本はファシスト国家では決してなかったと、証明できないのか?
ここに渡邊理氏の筆になる「マオ」の読後感がある。学校で教える既成の歴史観にすっかり洗脳されているにもかかわらず、これだけの読み込みをされている。このように他の書物との整合性を比較するだけでも、ユン・チャン達の歴史認識の正しさと斬新さと重大さは分かる筈だ。尤も渡邊理氏の毛沢東と西太后の比較の個所などには何の意味もないが。
日本人が「マオ」に於いて瞠目しなければならないのは、張作霖爆殺の部分であることは言うまでもない。かつて紅衛兵であったユン・チャンが飛車、角をこちら側に与えてくれている、そうとらえる想像力さへ日本人は既に失ってしまったのだろうか?
駄目押し参照1:満州事変「1931(昭和6年)」
駄目押し参照2:日中戦争(正確には「日支事変」)・日中対決
願わくば、渡邊理氏にもお読みいただきたい。

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上の記事は2010年5月2日 以下 追記:2011年1月12日
German-Japanese Agreement and Supplementary Protocol, Signed at Berlin, November 25, 1936 (Anti-Comintern Pact)

テーマ:国際政治 - ジャンル:政治・経済

アンドレ・ジイド と 宮本百合子

「アンドレ・ジッド:文学者の洞察力」に関して二つのBlog記事にリンクさせていただきました。
ロシアが気になる & ○アボカドサンドとアイスキャンデー
・・・・・・・・
○ The Gulag Archipelago : 収容所列島
○ ソルジェニーツィンの個人史:Wikipedia

・・You Tube ・・You Tube・・You Tube・・
第2次大戦への道(1918-1938) - ソビエト(ソ連) 1 of 4
第2次大戦への道(1938-1939) - ソビエト(ソ連) 2 of 4
第2次大戦への道(1939-1940) - ソビエト(ソ連) 3 of 4
第2次大戦への道(1940-1941) - ソビエト(ソ連) 4 of 4
・・・・・・・・
宮本百合子 1899-02-13~1951-01-2
Wikipedia 日本語Wikipedia 英語
宮本百合子:作品を読む
前ペイジに紹介したモスクワで粛清された日本人(青木書店)P.285には以下の記述がある。
宮本百合子は、いまや「ソ連邦は我我の理想としたソ連邦ではない」としたアンドレ・ジードの「ソヴィエト旅行記」に反論して、37年2月に「ジイドとそのソヴィエト旅行記」、10月に「こわれた鏡ージイド知性の喜劇」を書き『プラウダ』の社説と「歴史の本質」なる虚構に依拠して、スターリン体制を擁護していた。
作家宮本百合子としての発言と見るより、宮本顕治の妻として、思考限度・思考境界が出来上がってしまっていたのだろう、と見るのが一番優しい眼差しなのではないだろうか。洞察力云々以前に問題がある。
・・・・・・・・
参照:湯浅芳子 Wikipedia 湯浅芳子 Blog「焔の詩人・小熊秀雄」
野上弥生子の紹介で中条百合子と知り合い、1924年から、当時の夫と離婚した百合子と共同生活を送る。1927年から1930年にかけて、百合子とともに当時のソ連に滞在する (Wikipediaより引用)
20年くらい前だろうか、ある書店で「百合子 ダスビダーニャ」というタイトルのハードカヴァーの本(文庫ではない)に目を通した記憶がある。ロシア文学者湯浅芳子と作家中條百合子が恋人同士として遠くロシアで暮らす愛の生活が文字を介して展開していたように記憶している。国内国外合わせて二人の恋愛関係は7年ほど続いた。それよりも、こんな昔に日本女性がふたりきりで、遠くロシアで暮らしたと言う事実に堂々と暮らしている様子に驚愕したのを憶えている。湯浅芳子著だと思ったのだが、どうやら勘違いだったようだ。封建的で女性に対して理不尽な制約が多い日本を脱出した開放感で一杯だったのだろう。苦しみも困難も何もかもがまだ新しさのある国家に於いて新鮮でたまらなかったのではないか。政治は肌では感じていなかった筈だ。勿論この生活の中で、後の宮本顕治との生活は、梃子でも動かぬプロレタリア作家としての人生は育まれていったのだろうけれども。
文学に興味のない方のために、宮本百合子のある一面を敢えて紹介してみました。プロレタリア文学・プロレタリア絵画に関しては、何かのきっかけがあれば、ペイジを新たにたてていつか書いてみたいと思っています。

・・・・・追記:2010年6月5日・・・・・
学陽書房、女性文庫「百合子、ダスヴィダーニヤ」を読了した。サブタイトルにあるようにあくまでも、湯浅芳子の青春がテーマであって、Tel Quel Japonが書き記すような記載はなかった。あえて書き留めるとすれば(1)1930年6月末、百合子がひとりで片山潜に会見してソヴィエト滞留を勧められたことを湯浅が知り衝撃を受けたこと(2)結局そのことが、1932年2月上旬、芳子留守中に、百合子家を出、宮本顕示と結婚、につながる、ということ(3)1930年12月中旬芳子、百合子と共にナップに加盟。この三点だと思う。筆者沢部ひとみの筆を全体的にたどってみた感想としては、典型的ブルジュア娘中條百合子を宮本に走らせたのは、芳子では満たされなかった性の部分と、世界大恐慌以降の日本社会の全体的傾向にすっぽりはまったから、と見るのが妥当だということだ。芳子に向けた、強烈で純粋に見える愛が、後に宮本性となった百合子によって、がむしゃらに自己否定されるのは、思想のサイボーグと化した百合子を仮に認めるとしても、読んでいて哀れで無残であった。ひょっとすれば、百合子は片山潜が洗脳し、日本国内の誰でもいい、党員のひとりにプレゼントしようとした、性を含む、強力お手伝いだったとも見えてくるからだ。
・・・・・追記:2010年6月6日・・・・・
記述しておいた方がいいと思われる個所を見つけたので付記しておく。
p.253 : 芳子と百合子が到着した1927年からは、革命の中心となったトロツキー、カーメネフ、バフーリン、ルナチャルスキー、ルイコフらが党を除名されたり国外に追放されたりしている。ー(略)-物資の乏しい生活はいかがおうにも不平等を生む。ー(略)-少数のものが手にできるものは何でもつかんでしまい、残りのものは飢え、ぼろをまとい、貧民窟に群がる。当時のモスクワには、浮浪児のスリやそれをあやつる大人のスリ団がたくさんいたという。
そしてそのような少年のスリに芳子と百合子は騙されて、時計やハンドバッグを奪われる。それに対する二人の見解の違いを以下に引用する。
p.256 : 階級的な問題とみる百合子に対し、芳子はその原因を「われらふたりの小児病的なカー・ペー(共産党)への信頼にあった」とする。百合子の中に芽生えだした社会主義的なものの見方に対し、芳子はあくまで理想に幻惑される人間のおろかさを見つめる視点を外さない。このあたりからふたりの方向は、思想的にもズレを見せ始めるのである

・・・・・追記:2010年6月20日・・・・・
百合子と芳子、あるいはジイドなど、このペイジを書いて、Fascism vs Communismの誤思考、というカテゴリーで、Jean Paul SartreとAlbert Camus、Paul ÉluardとAndré Bretonの対比などのペイジを書きたくなった。ただ資料がありすぎて膨大な時間がかかる。それに資料を読んでまとめるだけでは意味がない。どういう視点でどう切り込むか。特に、根底に全く新しい着眼がなければ、書く意味がない。それで入稿なしの日々が過ぎてしまった。これにかかりきると、準備だけでも何年もかかってしまいそうだ。
とりあえず消さなかった(まだ読んでいない)資料をランダムに置いていく事にする。
資料:Philosophy Jean Paul Sartre
資料:Albert Camus : The stranger:
資料:France Info:  
資料:Radio Canada:
資料:Radio PRAHA :
着眼のための資料:Click My Heart:
・・・・・・・
資料:Sartreとはなんだったのか:詩集「2N世代」By Bruxelles

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

Fascism vs Communismの誤思考 (3)

Edgar Snow
・・・・・(3) Seicho Matsumoto & Communism・・・・・

PicassoやYves Montandはともかくとして、日本では松本清張の政治的ポジションは広く知られていると理解していいだろう。1960年に発表された「日本の黒い霧」など、その作品を読めば明白だ。探偵小説を推理小説に移行させた社会派人気作家なのであるから。世論形成におけるその影響力は言うまでも無く絶大である。
松本清張作品:リンク
松本清張『日本の黒い霧』と社会推理: リンク
松本清張 : Wikipedia
Tel Quelで何も松本清張を論じるつもりも紹介するつもりも無い。先日タイトルに惹かれて松本清張の「男たちの晩節」と言う小説を買って読んだ。後ろに清張の年譜がついていて、1968年のなかの一行に眼を奪われたので、ここに取上げることにした。
来日中のエドガー・スノウと対談ーとあったのだ。
このBlogをクリックされる方なら、Edgar Snowがどういう人物かは、良くご存知だと思う。たとえば上の写真の解説はこうだ。
Edgar Snow (first left), the US journalist and writer known for his book "Red Star Over China," chats with Chairman Mao Zedong on October 1, 1970 on the Tian'anmen Rostrum in Beijing as they view the grand celebration of the 21st anniversary of the founding of the People's Republic of China
驚いたことに千夜千冊の松岡正剛が「中国の赤い星」をこのように紹介している。時代が遡る分清張のEdgar Snowに対する盲信ぶりはこれに輪をかけたものだったのだろう。(’68といえば「毛沢東語録」が赤尾の豆単よりも売れた年だ。ところで誰がEdgar Snowを日本に呼んだのだろう。)

読み比べ:聞き比べ
○ Edgar Snowと毛沢東 :(このペイジで北京放送中国国際放送局が聞ける)
○ Mao: The Unknown Storyの著者Jung ChangとJon HallidayがListenerのメイルや電話に答える:必聴!参照
○ スノー未亡人の激白
○ The Straits Times, 11 October 2000
○ 松井石根とエドガー・スノウ
○ 中国がひた隠す毛沢東の真実
○ Site:Way That Are Dark
○ Chinese People's Forever Friend
○ 日中戦争の真実
○ 中華人民共和国の誕生にEdgar Snowがどれだけ貢献したかは、上の写真を見れば一目瞭然だ。この特権的地位を得るためにEdgarが何を書いたか。ヒトラーにとってのゲッベルス以上の働きをした、すでに中国人まがいのEdgarがいる。視点を誘導され、思想を注入され、検閲を受け、それでも夢見心地のEdgar。カールソンやスメドレーの仲間である。
未亡人が編集したEdgar Snowの巨大な中国写真本を数ヶ月前に読んだが(麻痺しているためか)内容的には、日本の教科書ほど日本に対するこれでもかという悪口雑言は見当たらなかった。写真は機能を失し内乱状態の国の中で、極度の貧しさから動物同様またはそれ以下の生活水準に苦しむ、想像を絶する中国人民の姿をとらえていた。このままではいけない、中国人に機能する国を与えなければいけない、とEdgarでなくても思う。Edgarはその夢・幻想を毛沢東に重ねたのだろう。ある資料によると結果論ではあるが、Edgarは晩年、毛沢東に自分がいいように利用されたことをうすうす感じ、また認めていたそうだ。
数ヶ月前TV局のアナウンサーが「ガンジーといえば、毛沢東と並ぶ、20世紀の偉人ですよ」と言ったのを聞いて吃驚したのを憶えている。そういう思考力の無い知識人は日本にまだまだ沢山いる。Snowが生み出したSnow's AHO children達だ。 
・・・・・・・・・・・・・・

清張年譜:その他の注目
1968年1月、59歳
カストロ首相、ゲバラ夫人とのインタビューを試みたが失敗。
1974年12月29日 65歳:池田大作創価学会会長と宮本顕治日本共産党委員長の極秘会談を自宅でセットする。
1975年7月 66歳 :前年末の池田・宮本会談による「創共協定」の成立が報じられ、各方面に衝撃を与えた。
・・・・・・・・
(注)清張は推理作家であるので、事件をどう推理しようと、推理なのだ。また清張がEdgar Snowと対談したからと言って、作家としての作品評価にはなんら影響するものではない。
/////////////////

スペイン内戦:Wikipedia
また、共産主義とファシスト枢軸との間の代理戦争との見方がなされていた。
ちょうどこの時期、1937年7月、盧溝橋事件、12月南京占領、1939年3月、フランコ、日独伊防共協定に参加、などのタイミングを外からみれば、日本はファシスト国家だという風に眼鏡が固定されてしまったんでしょうね。
1937年のPicassoの「ゲルニカ」も大きなインパクトになってるんですよねぇ、人民戦線政府から注文があって、三角関係の苦労と自分を取り合って二人の女が争うのを描いただけなのに、平和の象徴としての歴史的名画になった。(どこが平和の象徴かわかりませんけどね)しかもナチスによるゲルニカ空爆と同じ1937年の8月15日日本軍が南京の空爆を開始したから、イメージとして日本は平和国家の対極に置かれてしまうんです。

・・・・・追記:2010年4月27日・・・・・
中国人民解放軍の正体」: 佐藤守Blog
多くの日本人を洗脳したEdgar Snowが実は、共産中国の飼い犬的プロパガンダ担当要員に過ぎなかったことが、少しは分かるだろう。目覚めよ、松岡正剛!

・・・・・追記:2010年6月4日・・・・・
Read this page : Edgar Snow and others
The 'Mao Myth' is centered around the 'Long March' myth, which has long been known to have been fabricated by Edgar Snow. His book of lies is still in print.

テーマ:政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル:政治・経済

Fascism vs Communismの誤思考 (2)

Monroe & Montand

・・・・・(2)Yves Montand & Communism ・・・・・

最も有名なシャンソン「枯葉」の歌手として、Edith Piafのツバメ?として、そしてMarilyn Monroe の熱愛のお相手として(写真上)Yves Montandの名を知らない日本人はそう多くはいないだろう。が彼が熱心な共産主義者であったことは日本ではあまり知られていない。
Yves Montand : Bio 1
For most of his life he was known as a supporter of left-wing causes.....
His father was involved with the Communist Party, and in May 1924 the family was forced to move to France to escape political persecution from the Fascists led by Italian dictator Benito Mussolini......
he also found time in 1956-1957 to tour the Soviet Union and Eastern Europe, a trip that began to open his eyes about totalitarianism.....
Yves Montand : Bio 2
Montand, who came from a fiercely Communist family, would go on to support the French Communist Party, he and Simone Signoret signing numerous petitions on its behalf.....
In the autumn of 1956, Montand was preparing to set off on an extensive tour of the USSR. But when the Russians sent their tanks rolling into Budapest on 24 October Montand, like a number of other French artists and intellectuals with Communist leanings, was faced with a huge dilemma. Montand’s conscience was torn in two. He certainly did not support the action of the Soviet government, but nor was he ready to make a political break from the Communist party and his own family.....
During his stay in the Russian capital Montand was invited to meet President Kruchtchev and the pair became involved in a heated debate about the Soviet invasion of Budapest. Their violent head-to-head confrontation lasted a full four hours, with neither side giving in. ...
When he returned to France Montand took care to play down his political opinions, distancing himself from the French Communist Party.....
Yves Montand : Bio 3
In 1950, he signed a partition against the atom bomb and he became a prominent member of the French communist party.....
By this time, he was becoming disillusioned by political activism and, after his father’s death in Octiber 1968, he severed all ties with the Communist Party.....
Yves Montand : Bio 4
Yves Mpntand : Bio 5
Miss Signoret drew Mr. Montand into the intense Parisian world of leftist politics and, though he never formally joined the French Communist Party, he cheerfully described himself as a fellow traveler. Indeed, shortly after the Soviet invasion of Hungary in 1956, the couple made a much-publicized -- and highly-criticized -- tour of the Soviet Union. ...
By the mid-1960's, when he starred in Alain Resnais's "La Guerre Est Finie" ("The War Is Over") about a disillusioned veteran of the Spanish civil war, his own political disillusionment was growing. After the Soviet invasion of Czechoslovakia in 1968, he turned away from what he saw as the ever-Stalinist French left.

参照:Claude Vinci : Music Cross Talk
危険人物とみなされ、友もなくしたClaude Vinci、祖国を裏切った政治的脱走兵のClaude Vinciが最後に頼っていけたのはYves Montand夫婦だった。このことからもYves Montandの政治的信念の?強さが分かるだろう。

・・・・・追記:2010年5月8日・・・・・
スペイン人のピカソにとってのFrancoはイタリア人のモンタンにとってのBenito Mussoliniだった。その実体験がふたりをFascism vs Communismの誤思考に導いた。二人は正義感と人類愛に燃えてソ連のCommunismの言わば巨大広告塔となって大いにfellow travelerの役割を果たす。だが1956のハンガリー動乱の際に決行したソ連ツアーがモンタンを変えた。大きな幻滅を与えたのだ。そして1968年、チェコ動乱とイタリア人で熱心な反Fascist,つまりCommunistだった父親の死と共に、これまでの政治的立場を完全に捨て去った。1968年のParisで多くの人たちと逆行する決断を下せたのは、これだけの大きな影響力を発揮できる人物の中ではモンタンをおいて他にいなかった。これまでのほとんどすべての友人達と、思想の面で話し辛く会い辛くなってしまうのだ。モンタンは正義感や人類愛を捨てたのではない。フランス思想界全体を支配していた心情的親ソ反体制思考の奥に潜む、幽霊のような、実在しない筈のコミンテルンの指令の影を見抜いたのだ。マルクスから毛沢東に乗り換えて’68年、毛と並ぶ学生運動期のスターであったSartreと対比すると、Montandの人間としての安定した知性が光る。Montandは大きな人工的な時代の風の源に自ら気づいた数少ないシャンソン歌手であり、映画俳優である。しかし日本に於いて、フランスに於いて、Yves Montandがこの視点で評価されたことは未だかつてない。マスコミが歪に発達した社会に於いては、洞察力がなく、かつ常に保身に汲々とする者ほど、情報を情報売価でしか評価・選択・発信出来なくなるからだ。

テーマ:国際政治 - ジャンル:政治・経済

Jack Shirai & Spanish Civil War

今日は気温のせいか、特別な疲労を感じる。
Jack Shiraiの名に聞き覚えがあった。どこで聞いたのかと思い出したら、石垣綾子の著作だ。石垣綾子を軸としてゾルゲ事件と、つまり上海の陰謀団とスペイン内戦が繋がった。Jack Shiraiが英雄なら、尾崎秀美も英雄だと、日本の歴史ではどうやらそうなっている。岸恵子もこの線に違いない。何もかもFascismと決め付ければ、それに敵対するものは正義のヒーロー、という単純な思考だ。フィルビーもフランコ側に身を置いて、表立ってはそういう報道をしているが、ここでも優秀なスパイだった。ソ連に敵対するものは全部悪、全部Fascism、つまりは人民の敵、という発想が見て取れる。ソ連に続きスペインが人道的見地から立ち上がり、そこに世界中から知性と人類愛と勇気のあるヒーロー達が、スパイではなく兵士として銃を手に駆けつけた、手に汗握る人道賛歌の物語の出来上がりだ。ついでに日本はFascist国家、悪の枢軸の権化で、中国に於いて云々、という附録の物語までが完成する。
人類のために、その正義のために戦って死ぬ、のが一番望ましい生き方、死に方であるのは認める。だからと言って、人や国家を勝手にFascist呼ばわりして、つるんで襲いかかってくるのは良くない。物理的に、また精神的に破壊し尽くして、その後もいつまでも、再起不能なまでにFascistよばわり、人類の敵呼ばわりしつづけるのはよくない。
この辺を頭に置いてスペイン内乱及びその解釈に関するFilmを御覧いただきたい。理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取る瞬間が、正義の女神が 過去の歴史認識に変化を要求する瞬間が見抜けるように、油断無く、流されないよう、心して御覧下さい。

Fighting Fascism: The Americans–Women and Men–Who Fought In the Spanish Civil War
まずVideo : 見ごたえ聞き応えあり。
音声資料 
元のペイジ
・・・・・・・・・・・・・・・・・

スペイン内戦で闘った記録に残る一人の日本人がいる。結構人物の履歴も評判も判明している。顔写真もあれば、埋葬写真もある。Jack Shiraiを語る仲間もいれば、彼に捧げられた詩も残っている。
スペイン戦争・人民戦線とファシズム
Jack Shirai, a japanese in the International Brigades
a Japanese 'hero' of the Spanish Civil War
Japanese Involvement in Spanish Civil War
スペインで戦った日本人
Jack Shirai:

20世紀前半に吹き荒れた風は、結局20世紀の終局で止まらず21世紀にも同じように吹いていると言うことだろうか?何の話って?
歴史的意味を持つFederico Garcia Lorcaの死
ロルカの死もピカソのゲルニカと同じくらい強烈にその風を煽ったんですよね。
BBCのTVドラマ「ケンブリッジ・スパイズ」。またイギリスがどういうつもりでTel Quelでも紹介済みの彼らを持ち出したのか、不思議に思うのでちょっと当たってみました。イギリスでは21世紀その風はどんな風に吹いているのか。篠田監督のゾルゲの如く吹いているのか、どうか。
The Cambridge Spies:BBC-1
The Cambridge Spies:BBC-2
The Cambridge Spies:BBC-3
The Cambridge Five
2003年に放映され、年末にはDVDになってるんですね。BBCの解説によると「Fired by youthful idealism, passionately committed to social justice and to fighting fascism, they are bonded by friendship based on shared conviction and shared sacrifice.」 これじゃあ、篠田監督と同じでヒロイックにまとめたんですね。ただ、岸恵子が憤慨したように、ゾルゲ同様、彼らも一切スターリンから信頼されず二重スパイの疑いをもたれていた。(まあ、ああいう人ですからね)これでゾルゲ同様尚更ケンブリッジ・スパイ達の悲劇性とドラマ性が高まると言うわけですね。Fascismと闘った、と言えばイギリスでも何でもあり、ってこと?若きエリートの民衆への愛と正義感と自己犠牲で纏めた、ってこと?イギリスはFascist呼ばわりされる心配は無いから、こういうくくり方もアリかもしれないけど、彼らが何をしたかを考えれば、国民が怒らないのでしょうか?BBCもNHKってこと?ま、ま、まさか!
大局的に見れば、国際連合がある限り、滅びたはずの共産ソ連の墓場辺りから、この風は21世紀も吹きつづけるのでしょうね?
(videoちょっと見た感じでは、love sceneが多かったから、テーマはちょっとずれてるかもしれないけど、希望的観測としては。どうなんでしょう)

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・・・・・追記:2010年5月5日・・・・・
Jack Shiraiは美味しい料理を手早く多量に作ることができて、仲間達に愛された、という辺りを思い出して、昨夜ふと疑問が湧いた。海外から駆けつけた義勇軍の武器や食料等に関するお金はどこから出ていたのか、と。
スペインの金 モスクワへ
調べると膨大な時間がかかるので、とりあえず、お座成りながら上にひとつだけリンクを貼っておきます。万事はまた後ほど。

・・・・・追記:2010年5月5日・・・・・
スペイン内戦に関して面白いペイジを見つけたので、追加リンクを貼っておきます。
スペイン内戦:裏辺金好
スペイン内戦:頭の整理用

・・・・・追記:2010年5月5日・・・・・
今日面白い映画に気づきました。ちょうど日中戦争やスペイン内乱の頃の、その仕掛け人本国共産ソ連内部のお話です。日本公開も済んでいますが、日本人がこの辺りの事情を垣間見るまでには、2世代の方々がこの世から消えています。言い換えれば、その長きにわたって、歴史に無知だったわけです。一からの再検証は面倒とばかりに、解説の偉い先生は、最後の最後に問題を摩り替えています。お見逃し無く。真似をなさらないように。
同時代の3ヵ所3ヶ国を頭で平行に並べて、歴史を考えると、見えてくるものがあると思います。新しい視点を構築するためには、膨大な時間とエネルギーが必要で、人は大変消耗しますが、見抜くべきことは、見抜かなければならないと思います。
この映画に関するBlogを二つ紹介します。
サーカスな日々
詩と批評
次に映画に関する資料です
映画の日本語サイト
グルジア映画, 「懺悔」を一部見る

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Fascism vs Communismの誤思考 (1)

・・・・・(1) Pablo Picasso & Communism・・・・・

日本も例外ではないが、フランスにおいては音楽家・映画人・演劇人・画家・作家・詩人・評論家・歌手・大学教授・番組制作者・アナウンサー・司会者・出版人など等、所謂文化的著名人の9割以上がCommunistまたはそのシンパである、またはあった、と言ったら、驚かれるだろうか?「こころは左、財布は右」と言われるフランス人、経済はさておき、理解しがたいほど熱狂的に、心情的には親ソ的だ。
このBlogでも取り上げた岸恵子夫妻のゾルゲ解釈、などは、言ってみれば、その一例にすぎない。何故なのか?何故なのか?何故なのか?岡田嘉子を見ても分かるように、戦前は誕生した新しい国家形態に夢が膨らんでいたのだろう。では戦中戦後はどうなのだろう。本日はまずあの20世紀最大のArtistの一人と言ってもおそらく異論は無いだろうPablo Picasso(血液的にはスペイン人ではあるが)を取上げてみたい。
Pablo Picasso biography
You Tube 1 & You Tube 2 & You Tube 3
You Tube 4 & You Tube 5 & You Tube 6
You Tube 7 & You Tube 8 & You Tube 9

追記:2010年3月26日
前からそうではないかと思っていたが、ここでも次のようなことが確信できる。
上記No.6: 連合国軍が占領ドイツを追い出しフランスを解放し、フランスはいきなり戦勝国となった。連合国軍、なかでもソ連軍のおかげであったとPicassoは認識した。Fascismの枢軸国をCommunismのソ連が駆逐してくれた、という感激があったのだ。人民ソ連を祖国のように感じ、自身Communistを任ずるのは、Picassoにとってはおそらく自然な流れだったのだろう。(この発想は勿論Picassoだけではない)
上記No.7: これまでのスペイン・フランス等の植民地主義国家に対する反省も生まれPicassoの中ではImperialism(帝国主義=戦争・侵略)対Communismの思考軸が出来上がり、ソビエト=平和・理想という希望の図式が完成した。(岸恵子等が、ソ連のスパイであったゾルゲを平和のために尽力した偉人と認識し、ソ連でこそ映画を公開したいと望んだのと、同じ思考軸だ)すべからく疲弊した各国の中でまだ若いソ連だけが戦後いきなり大国に踊り出たのは、戦後社会で最大の価値を認められた平和を、ソ連こそが象徴する国だと、多くの人々が錯覚し信頼し共感し摺り寄ったからだ。
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Picasso : Wikipedia
Picasso and Communism :
No.1 : But his long exile from his native Spain in opposition to the regime of General Franco coupled with the brutal experiences of life during the Nazi occupation of Paris, meant he saw communism and the ideal of peace as the key to a world free of fascism.
No.2 : Picasso also began leaning toward Communism. Revolutionary art went hand in hand with revolutionary politics. During the Spanish Civil War Picasso sided with the Republicans, who in turn were supported by the Communists, and he openly supported their struggle against Franco and Fascism.
No.3: Picasso joined the French Communists in 1944, at the age of 63, and remained an unwavering party member for the rest of his life-through the exposure of the evils of Stalinism, the brutal Soviet repression of the Hungarian uprising in 1956, and the subsequent desertion of many other French intellectuals with whom he had become politically active.
No.4 :( 私は何故コミュニストになったか)As Picasso’s stance suggests, many individuals in artistic and entertainment circles moved within the orbit of Communism as a liberal concept.
No.5 : Utley provides the first account in English of the intricate relations between the French Communist Party and its artists in the years immediately following the Liberation.

Picasso Peace
Picasso donated the above to the Soviet backed World Peace Congress of 1949.

・・・・・・・・追記:2010年3月27日・・・・・・・
上記No.6 & No.7の錯誤のPicasso固有の原因を書き忘れたので追加する。Communism対Fascism,ソ連=平和・理想は、明らかに「スペイン内乱」に起因していることを見落としてはならない。否Picassoのみではない、これは多くの世界中の知識人たちに実はかなり長い間大きな錯誤をもたらしてきたのだ。
参照:スペイン内乱 & Spanish Civil War :
参照:The Spanish Civil War : BBC Radio 43min
(real playerで。今日は時間が無くてまだ聞いていないがとりあえずリンクしておく)
参照:Spanish Civil War 資料 Spartacus
参照:Francoが出てきたので、思い出したが、このBlogで何度か取上げたCharles Willoughbyが熱烈なFranco支持者なのを付加えておきたい。After his retirement, Willoughby travelled to Spain and became an unofficial advisor to the Spanish dictator Franco.(Willoughbyは戦後の日本にも大きな影響を与えた人物でもある。また彼の功績としては Herbert Normanと、Agnes Smedley(ゾルゲ事件関連)をソ連のスパイだと、指摘したことだ。参照

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