・・・・・追記・・・・・ アイノの協力者は東京朝日新聞の中野記者と「ジャパン・タイムス」の上原記者である。 両新聞で書き立ててもらって有名になり、皇居の園遊会に招かれたり、秩父宮にも会ったりして上流階級からの情報を入手していた。 上のリンクの一部引用にある中野記者はアイノの記述によると中野男爵となっている。「朝日新聞社史 大正・昭和戦前期」に登場する中野姓の記者は中野五郎唯一人であることから、加藤哲郎氏は中野五郎ではないかと推定されている。中野五郎の祖父は貴族院議員で、外国人にバロンと呼ばれる可能性はあると。中野五郎は杉本良吉と府立一中で同級生で「無二の親友」であった。「朝日新聞記者の見た昭和史」や「君は第二次世界大戦を知っているか」は名著として復刻され、今日でも読みつづけられている。(いずれも光人社)但し前書「朝日新聞記者の見た昭和史」には親しかった外国人の中に、エリザベート・ハンセンの名は入っていないそうだ。代わりに中野の他の書には、情報交換をしたり、一緒にバーで飲んだりした国際記者仲間として、なんとリヒアルト・ゾルゲとブランコ・ブーケリッチが登場する。他に学歴、特派員国、1942年の帰国などが書かれてある。中野五郎が魅力的な女流作家を園遊会に連れて行ったり秩父宮に紹介した中野男爵であることはほぼ間違いないだろう。同じ朝日新聞記者とは言え、中野とアイノの関係は、ゾルゲと尾崎のような共謀性はないと思える。加藤哲郎氏も「アイノ・クーシネンは敏腕な国際社会部記者中野五郎の目もくらませ、疑われることがないようなかたちで、着々と日本の上流階級に近づいていたのだろう」とかかれている。 ここまで読んで思い出したことがある。私の記憶がひらめいた。中野五郎とはあの人だ。「真珠湾奇襲は米国の書いた筋書きだった」という帯をつけ、なんと昭和29年8月15日に定価180円で株式会社大日本雄弁会講談社が発行したRobert A.Theobald著「The Final Secret of Pearl Harbor(邦題:真珠湾の審判)」を訳出したあの人だ。後に「真珠湾奇襲は米国の書いた筋書きだった」というテーマでかかれた本は何冊か出て、何度も議論のたびに登場するが、最も早い時期に書かれたのが、また訳出されたのがこの本だ。 参照:Tel Quel Japon過去記事 The Final Secret of Pearl Harbor クリックしてもう一度お読みいただきたい。今日の記事を読了後にお目通しいただくと、興味は二倍にも三倍にも膨れ上がる筈だ。
・・・・・・・・・・・ The Final Secret of Pearl Harbor : 推量のしかも私事で申し訳無いが、パール・ハーバーが筒抜けだったと言うことは、いつ頃から語られるようになったのだろうか?私は、半世紀以上前(1954年)からそれを信じて疑った事がない。海軍の研究をしていた父に、軍人の欧米人からある書物が届いた。父がそれを手にして、飛び上がって喜んでいた姿を、まだ幼稚園児だった私は覚えている。すべてに無知な幼稚園児のわたしが、何故その説をその年齢で知っていたのだろうか。思うに、父があの時手に入れたのはこの本(The Final Secret of Pearl Harbor )だったのではないだろうか。
・・・・・追記:2010年6月20日・・・・・ 百合子と芳子、あるいはジイドなど、このペイジを書いて、Fascism vs Communismの誤思考、というカテゴリーで、Jean Paul SartreとAlbert Camus、Paul ÉluardとAndré Bretonの対比などのペイジを書きたくなった。ただ資料がありすぎて膨大な時間がかかる。それに資料を読んでまとめるだけでは意味がない。どういう視点でどう切り込むか。特に、根底に全く新しい着眼がなければ、書く意味がない。それで入稿なしの日々が過ぎてしまった。これにかかりきると、準備だけでも何年もかかってしまいそうだ。 とりあえず消さなかった(まだ読んでいない)資料をランダムに置いていく事にする。 資料:Philosophy Jean Paul Sartre: 資料:Albert Camus : The stranger: 資料:France Info: 資料:Radio Canada: 資料:Radio PRAHA : 着眼のための資料:Click My Heart: ・・・・・・・ 資料:Sartreとはなんだったのか:詩集「2N世代」By Bruxelles
PicassoやYves Montandはともかくとして、日本では松本清張の政治的ポジションは広く知られていると理解していいだろう。1960年に発表された「日本の黒い霧」など、その作品を読めば明白だ。探偵小説を推理小説に移行させた社会派人気作家なのであるから。世論形成におけるその影響力は言うまでも無く絶大である。 松本清張作品:リンク 松本清張『日本の黒い霧』と社会推理: リンク 松本清張 : Wikipedia Tel Quelで何も松本清張を論じるつもりも紹介するつもりも無い。先日タイトルに惹かれて松本清張の「男たちの晩節」と言う小説を買って読んだ。後ろに清張の年譜がついていて、1968年のなかの一行に眼を奪われたので、ここに取上げることにした。 ー来日中のエドガー・スノウと対談ーとあったのだ。 このBlogをクリックされる方なら、Edgar Snowがどういう人物かは、良くご存知だと思う。たとえば上の写真の解説はこうだ。 Edgar Snow (first left), the US journalist and writer known for his book "Red Star Over China," chats with Chairman Mao Zedong on October 1, 1970 on the Tian'anmen Rostrum in Beijing as they view the grand celebration of the 21st anniversary of the founding of the People's Republic of China 驚いたことに千夜千冊の松岡正剛が「中国の赤い星」をこのように紹介している。時代が遡る分清張のEdgar Snowに対する盲信ぶりはこれに輪をかけたものだったのだろう。(’68といえば「毛沢東語録」が赤尾の豆単よりも売れた年だ。ところで誰がEdgar Snowを日本に呼んだのだろう。)
読み比べ:聞き比べ ○ Edgar Snowと毛沢東 :(このペイジで北京放送中国国際放送局が聞ける) ○ Mao: The Unknown Storyの著者Jung ChangとJon HallidayがListenerのメイルや電話に答える:必聴!参照 ○ スノー未亡人の激白 ○ The Straits Times, 11 October 2000 ○ 松井石根とエドガー・スノウ ○ 中国がひた隠す毛沢東の真実 ○ Site:Way That Are Dark ○ Chinese People's Forever Friend ○ 日中戦争の真実 ○ 中華人民共和国の誕生にEdgar Snowがどれだけ貢献したかは、上の写真を見れば一目瞭然だ。この特権的地位を得るためにEdgarが何を書いたか。ヒトラーにとってのゲッベルス以上の働きをした、すでに中国人まがいのEdgarがいる。視点を誘導され、思想を注入され、検閲を受け、それでも夢見心地のEdgar。カールソンやスメドレーの仲間である。 未亡人が編集したEdgar Snowの巨大な中国写真本を数ヶ月前に読んだが(麻痺しているためか)内容的には、日本の教科書ほど日本に対するこれでもかという悪口雑言は見当たらなかった。写真は機能を失し内乱状態の国の中で、極度の貧しさから動物同様またはそれ以下の生活水準に苦しむ、想像を絶する中国人民の姿をとらえていた。このままではいけない、中国人に機能する国を与えなければいけない、とEdgarでなくても思う。Edgarはその夢・幻想を毛沢東に重ねたのだろう。ある資料によると結果論ではあるが、Edgarは晩年、毛沢東に自分がいいように利用されたことをうすうす感じ、また認めていたそうだ。 数ヶ月前TV局のアナウンサーが「ガンジーといえば、毛沢東と並ぶ、20世紀の偉人ですよ」と言ったのを聞いて吃驚したのを憶えている。そういう思考力の無い知識人は日本にまだまだ沢山いる。Snowが生み出したSnow's AHO children達だ。 ・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・追記:2010年6月4日・・・・・ Read this page : Edgar Snow and others The 'Mao Myth' is centered around the 'Long March' myth, which has long been known to have been fabricated by Edgar Snow. His book of lies is still in print.
最も有名なシャンソン「枯葉」の歌手として、Edith Piafのツバメ?として、そしてMarilyn Monroe の熱愛のお相手として(写真上)Yves Montandの名を知らない日本人はそう多くはいないだろう。が彼が熱心な共産主義者であったことは日本ではあまり知られていない。 Yves Montand : Bio 1 For most of his life he was known as a supporter of left-wing causes..... His father was involved with the Communist Party, and in May 1924 the family was forced to move to France to escape political persecution from the Fascists led by Italian dictator Benito Mussolini...... he also found time in 1956-1957 to tour the Soviet Union and Eastern Europe, a trip that began to open his eyes about totalitarianism..... Yves Montand : Bio 2 Montand, who came from a fiercely Communist family, would go on to support the French Communist Party, he and Simone Signoret signing numerous petitions on its behalf..... In the autumn of 1956, Montand was preparing to set off on an extensive tour of the USSR. But when the Russians sent their tanks rolling into Budapest on 24 October Montand, like a number of other French artists and intellectuals with Communist leanings, was faced with a huge dilemma. Montand’s conscience was torn in two. He certainly did not support the action of the Soviet government, but nor was he ready to make a political break from the Communist party and his own family..... During his stay in the Russian capital Montand was invited to meet President Kruchtchev and the pair became involved in a heated debate about the Soviet invasion of Budapest. Their violent head-to-head confrontation lasted a full four hours, with neither side giving in. ... When he returned to France Montand took care to play down his political opinions, distancing himself from the French Communist Party..... Yves Montand : Bio 3 In 1950, he signed a partition against the atom bomb and he became a prominent member of the French communist party..... By this time, he was becoming disillusioned by political activism and, after his father’s death in Octiber 1968, he severed all ties with the Communist Party..... Yves Montand : Bio 4 Yves Mpntand : Bio 5 Miss Signoret drew Mr. Montand into the intense Parisian world of leftist politics and, though he never formally joined the French Communist Party, he cheerfully described himself as a fellow traveler. Indeed, shortly after the Soviet invasion of Hungary in 1956, the couple made a much-publicized -- and highly-criticized -- tour of the Soviet Union. ... By the mid-1960's, when he starred in Alain Resnais's "La Guerre Est Finie" ("The War Is Over") about a disillusioned veteran of the Spanish civil war, his own political disillusionment was growing. After the Soviet invasion of Czechoslovakia in 1968, he turned away from what he saw as the ever-Stalinist French left.
20世紀前半に吹き荒れた風は、結局20世紀の終局で止まらず21世紀にも同じように吹いていると言うことだろうか?何の話って? ○歴史的意味を持つFederico Garcia Lorcaの死 ロルカの死もピカソのゲルニカと同じくらい強烈にその風を煽ったんですよね。 BBCのTVドラマ「ケンブリッジ・スパイズ」。またイギリスがどういうつもりでTel Quelでも紹介済みの彼らを持ち出したのか、不思議に思うのでちょっと当たってみました。イギリスでは21世紀その風はどんな風に吹いているのか。篠田監督のゾルゲの如く吹いているのか、どうか。 The Cambridge Spies:BBC-1 The Cambridge Spies:BBC-2 The Cambridge Spies:BBC-3 The Cambridge Five: 2003年に放映され、年末にはDVDになってるんですね。BBCの解説によると「Fired by youthful idealism, passionately committed to social justice and to fighting fascism, they are bonded by friendship based on shared conviction and shared sacrifice.」 これじゃあ、篠田監督と同じでヒロイックにまとめたんですね。ただ、岸恵子が憤慨したように、ゾルゲ同様、彼らも一切スターリンから信頼されず二重スパイの疑いをもたれていた。(まあ、ああいう人ですからね)これでゾルゲ同様尚更ケンブリッジ・スパイ達の悲劇性とドラマ性が高まると言うわけですね。Fascismと闘った、と言えばイギリスでも何でもあり、ってこと?若きエリートの民衆への愛と正義感と自己犠牲で纏めた、ってこと?イギリスはFascist呼ばわりされる心配は無いから、こういうくくり方もアリかもしれないけど、彼らが何をしたかを考えれば、国民が怒らないのでしょうか?BBCもNHKってこと?ま、ま、まさか! 大局的に見れば、国際連合がある限り、滅びたはずの共産ソ連の墓場辺りから、この風は21世紀も吹きつづけるのでしょうね? (videoちょっと見た感じでは、love sceneが多かったから、テーマはちょっとずれてるかもしれないけど、希望的観測としては。どうなんでしょう)
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・・・・・追記:2010年5月5日・・・・・ Jack Shiraiは美味しい料理を手早く多量に作ることができて、仲間達に愛された、という辺りを思い出して、昨夜ふと疑問が湧いた。海外から駆けつけた義勇軍の武器や食料等に関するお金はどこから出ていたのか、と。 ○スペインの金 モスクワへ: 調べると膨大な時間がかかるので、とりあえず、お座成りながら上にひとつだけリンクを貼っておきます。万事はまた後ほど。
日本も例外ではないが、フランスにおいては音楽家・映画人・演劇人・画家・作家・詩人・評論家・歌手・大学教授・番組制作者・アナウンサー・司会者・出版人など等、所謂文化的著名人の9割以上がCommunistまたはそのシンパである、またはあった、と言ったら、驚かれるだろうか?「こころは左、財布は右」と言われるフランス人、経済はさておき、理解しがたいほど熱狂的に、心情的には親ソ的だ。 このBlogでも取り上げた岸恵子夫妻のゾルゲ解釈、などは、言ってみれば、その一例にすぎない。何故なのか?何故なのか?何故なのか?岡田嘉子を見ても分かるように、戦前は誕生した新しい国家形態に夢が膨らんでいたのだろう。では戦中戦後はどうなのだろう。本日はまずあの20世紀最大のArtistの一人と言ってもおそらく異論は無いだろうPablo Picasso(血液的にはスペイン人ではあるが)を取上げてみたい。 Pablo Picasso biography You Tube 1 & You Tube 2 & You Tube 3 You Tube 4 & You Tube 5 & You Tube 6 You Tube 7 & You Tube 8 & You Tube 9
追記:2010年3月26日 前からそうではないかと思っていたが、ここでも次のようなことが確信できる。 上記No.6: 連合国軍が占領ドイツを追い出しフランスを解放し、フランスはいきなり戦勝国となった。連合国軍、なかでもソ連軍のおかげであったとPicassoは認識した。Fascismの枢軸国をCommunismのソ連が駆逐してくれた、という感激があったのだ。人民ソ連を祖国のように感じ、自身Communistを任ずるのは、Picassoにとってはおそらく自然な流れだったのだろう。(この発想は勿論Picassoだけではない) 上記No.7: これまでのスペイン・フランス等の植民地主義国家に対する反省も生まれPicassoの中ではImperialism(帝国主義=戦争・侵略)対Communismの思考軸が出来上がり、ソビエト=平和・理想という希望の図式が完成した。(岸恵子等が、ソ連のスパイであったゾルゲを平和のために尽力した偉人と認識し、ソ連でこそ映画を公開したいと望んだのと、同じ思考軸だ)すべからく疲弊した各国の中でまだ若いソ連だけが戦後いきなり大国に踊り出たのは、戦後社会で最大の価値を認められた平和を、ソ連こそが象徴する国だと、多くの人々が錯覚し信頼し共感し摺り寄ったからだ。 ・・・・・・・・・・・ Picasso : Wikipedia Picasso and Communism : No.1 : But his long exile from his native Spain in opposition to the regime of General Franco coupled with the brutal experiences of life during the Nazi occupation of Paris, meant he saw communism and the ideal of peace as the key to a world free of fascism. No.2 : Picasso also began leaning toward Communism. Revolutionary art went hand in hand with revolutionary politics. During the Spanish Civil War Picasso sided with the Republicans, who in turn were supported by the Communists, and he openly supported their struggle against Franco and Fascism. No.3: Picasso joined the French Communists in 1944, at the age of 63, and remained an unwavering party member for the rest of his life-through the exposure of the evils of Stalinism, the brutal Soviet repression of the Hungarian uprising in 1956, and the subsequent desertion of many other French intellectuals with whom he had become politically active. No.4 :( 私は何故コミュニストになったか)As Picasso’s stance suggests, many individuals in artistic and entertainment circles moved within the orbit of Communism as a liberal concept. No.5 : Utley provides the first account in English of the intricate relations between the French Communist Party and its artists in the years immediately following the Liberation.
Picasso donated the above to the Soviet backed World Peace Congress of 1949.
・・・・・・・・追記:2010年3月27日・・・・・・・ 上記No.6 & No.7の錯誤のPicasso固有の原因を書き忘れたので追加する。Communism対Fascism,ソ連=平和・理想は、明らかに「スペイン内乱」に起因していることを見落としてはならない。否Picassoのみではない、これは多くの世界中の知識人たちに実はかなり長い間大きな錯誤をもたらしてきたのだ。 参照:スペイン内乱 & Spanish Civil War : 参照:The Spanish Civil War : BBC Radio 43min (real playerで。今日は時間が無くてまだ聞いていないがとりあえずリンクしておく) 参照:Spanish Civil War 資料 Spartacus 参照:Francoが出てきたので、思い出したが、このBlogで何度か取上げたCharles Willoughbyが熱烈なFranco支持者なのを付加えておきたい。After his retirement, Willoughby travelled to Spain and became an unofficial advisor to the Spanish dictator Franco.(Willoughbyは戦後の日本にも大きな影響を与えた人物でもある。また彼の功績としては Herbert Normanと、Agnes Smedley(ゾルゲ事件関連)をソ連のスパイだと、指摘したことだ。参照 )