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リビドーの音階が砂漠に死んだヤギの乳をしぼっていく

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THE CENTURY OF THE SELF

私Bruxellesが最初にこの記事を紹介したのは、このBlogのこのペイジだった。
Click My Heart
現在ほとんどのリンクが消されている。
それで、再度改めて、このAdam Curtisの素晴らしいfilmを、ここに置くことにした。
強制するつもりはない。興味のある方だけ、クリックされるといいと思う。連休に大切な予定のある方々はまた後日に。
私が今日できることは、これがすべてだ。

The Century of the Self - Part 1 of 4 - Happiness Machine

The Century of the Self - Part 2 of 4 - The Engineering of Consent

The Century of the Self 3 of 4  There is a Policeman Inside All Our Heads

The Century of the Self - Part 4 of 4 - Eight People Sipping Wine in Kettering

・・・・・・・・・・・・・・・・
The Century of the Self 文字資料
・・・・・・・・・・・・・・・・

東京裁判



///////追記:2016年4月24日///////
時間がないので記事化できませんが、取り置きしてあった、東京裁判のFilmをそのまま3本並べてみました。
またTel Quel Japonの情報ソース公開?という意味でも(本当?)ごく一部ではあるけれども、Bruxellesお気に入りの講演者の講演にリンクを貼って公開してみました。
参照:How History is Fabricated他:

極東国際軍事裁判 後編



極東国際軍事裁判 前編



中国共産党による対日工作

「きっかけは日清戦争だった」
江崎道朗氏講演会「中国共産党による対日工作」【前半】
「米中による日本封じ込め」
江崎道朗氏講演会「中国共産党による対日工作」【後半】
後半はTel Quel Japonの過去記事とダブルところも多かったですが、前半は、特に本(「正論」)では、日本が育てた中国共産党の工作員名などが、かなり具体的に出てきて、興味深い内容でした。
この辺りにプラスして中ソ関係、米ソ関係またそこから派生する対日影響(工作)、に関しては、英文資料を活用して福井義高氏も、興味深い記事を書いておられます。これは福井氏の古い原稿ですが、今はもう少し新しい資料を使った奥深い記事を書いておられます。ただ福井氏の記事に反応を示す読者が、余りにも育っていないのは残念なことです。これからはこの辺を日本独自の視点でさらに深める、もっと多数のもっと多様な研究努力がなされれば、と願っています。

ソ連との戦いには勝った? 重要追記あり

なかなかその気にはならないのだけれど、そろそろその辺の整理をしようと思って(すでにもう遅いのだけれど)拡大コピーしてある「正論」平成28年1月号のー「共産主義が起こした第二次世界大戦」を議論せぬ日本の歪みーを見つけたので、再度読んでみた。

P.183: 江崎 抜粋
ー「日本が正しかった、間違っていた」ではなくて、欧米によるアジア・アフリカの植民地化と、ソ連コミンテルンによる世界共産化という荒波の中で、日本は第二次大戦に引きずりこまれ、敗戦に追い込まれた。しかし戦後は、自由主義陣営の一員であることを選択し、ソ連コミンテルンや中国共産党と戦ってきてソ連との戦いには勝ったが、中国共産党の覇権主義との戦いは継続中だ、という大きな枠組みで近現代史を俯瞰する視点を取り戻さないといけない。それが安全保障を考える上でも最大の論点といえるでしょう。ー
ふむ、なんだかねえ、下線部が変だと。ソ連コミンテルンとの戦いに勝った?って。どんな戦いをしてどんな戦勝品を得たのだろうか?国連常任理事国の地位をソ連から剥奪し自らのものとした?中国共産党の覇権主義との戦い?多分外交上のことだとは思いますが、日本はどんな戦いをしました?ひたすら叩頭し続け70年、もはや前につんのめって、ばったり両手を突いた結果がくどいようだけれどこれー戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。ーではないの?戦いは継続中だ、等とどの口がいうのだろうか?ソ連コミンテルンとの戦いに勝った?って。池乃めだかのギャグ?ですか。ソ連コミンテルンや中国共産党にはしてやられたままで、戦後70年間もあるのに検証のメスさへ入れていない。ひょっとして主語はアメリカで、日本は同盟国なので、なりきり主語は日米合衆国、という発想なのでしょうか?もう日本国は戦前にはあったけれど、戦後は消えてしまっているという、認識?なのでしょうか?安全保障という面からはもう日本という自我は捨てて、日米合衆国という主語で発想するようにいつの間にかなっている?それが普通?これに対しては
P.183&P.184: 西岡 抜粋
日本こそが脅威をまともに受けているわけで「米国の戦いを助ける」という姿勢では勝てない。血を流すことも含めて、日本の自由を守るために何をなすべきなのかを考えねばならないと思います。
というfollowがあって、話は日米合衆国という主語による戦後歴史認識から一転して、日本が主語となる、架空の主体的積極的安全保障論に入れ替わる。

この座談会はこういった部分をのぞくとなかなか面白いのですが。前に読んだ時も西岡氏が、歴史認識の中に今現在の安全保障問題をさりげなく放り込むのが気になりました。安全保障に関してはそれは日米は戦後一貫して同盟国なのですが、歴史認識において、あの戦争に於いてはアメリカは日本の敵国であり、しかも(この辺の洞察が欠ける為だとも思いますが)、そのアメリカはソ連・コミンテルンや、共産中国と連携して日本を敗戦に追い込んだ、という事実をはっきりととらえなければならない、と思うのです。GHQ史観が日本人の頭の中でコケのように一面に蔓延るのをもはや防ぐことは出来なくなります。

「正論」のこういう座談会は、適当に読んで、渡辺昇一氏のようになんでもそうだそうだと言っていれば、いいのかも知れませんけどね。

・・・・・・・・追記:2016年3月30日・・・・・・・
コメント欄の池田様にお送りしようと思っているのは、正論 平成28年1月号の座談会、100年冷戦史観第2弾、とある。前回の第一弾は正論 平成27年5月号、まだ安倍談話が出る前、 20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)のまだ前半部の審議?のあたりのころで、おそらくGHQ史観に敗北しないで、日米一体となっての冷戦勝利史観でまとめて欲しい、という思いがあったのではないだろうか?探してみた。
第一弾は正論 平成27年5月号
その少し前には西岡氏のこの記事があるようだ。
こちらはおそらく産経新聞の正論 2015.2.24 05:03
確認したわけではないが、座談会の3人以外に、桜井氏、中西氏、なども冷戦勝利史観の賛同者らしい。
もう安倍談話も出てしまった後だし、にもかかわらず、保守層の圧倒的賞賛を受け、支持率も下がらなかった。
いまさら蒸し返しても全く意味がない。ただこの冷戦勝利史観は、安倍談話に思いもかけないヒントを与えた。主語をあいまいにすればなんとか誤魔化せる、文意の糸を矛盾だらけにして、日本語をあいまいにすれば、あとは読み方次第にすれば、評価など保守の総力を結集すれば、批判は吹き飛び、寧ろ勢いで実権行使力の強化に繋がる。まあそんなところに治まっている。
座談会で3人が批判しておられる懇話会の最終reportを出しておく。
Report of the Advisory Panel on the History of the 20th Century and on Japan’s Role and the World Order in the 21st Century

話が逸れてしまったが、わたしがここで本来言いたいのは、この冷戦勝利史観、(上記のように安倍談話の翌年にまだしぶとく第2弾として登場している)、日本がソ連に勝って、中国とはまだ抗争中、戦争中?日本はそれに勝てば、なにが戦勝品として得られる見込みがある戦い?えぇ? えぇ?戦前の日本を恥辱まみれにする戦いに参加して、市場をマーケットを貰うという、そういう戦いを続けている?まさか違うでしょ。言葉で言うより、見るほうが早いでしょう。ニュースを少し並べて見ます。
冷戦勝利史観、ニュース この矛盾をご覧ください
A.日中国交正常化
B:日中外交はこうして始まった
C:日中平和友好条約
ついでに
D.日ソ国交回復 共同宣言調印
詳しいことはこちらをどうぞ。
西尾幹二のインターネット日録:日中友好とは

最初の思いに反して、随分長くなってしまいました。(つづく)の記事はできるだけ短くしよう。時間が無い。
否(つづく)は止めにして、この記事を冷戦勝利史観、批判、だけに止めてとりあえずこれで終えることにします。

/////////////追記:2016年4月8日10日/////////////
現代を捉える。
2015年5月27日の放送
ロシアから見る国際情勢~独ソ戦勝70年記念式典と中露合同軍事演習
2014年8月20日の放送
日露関係とロシアの野心

歴史認識から日露関係を検証する
参照:「太古と言う未来」
V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳

追記:2016年4月22日
事情がありこの記事を上にあげます。この記事は本来3月27日の記事です。
最初の思いに反して、この記事を冷戦勝利史観、批判、だけに止めてとりあえずこれで終えることにします。と3月30日の記事の最後に書いていますが、やはりこれでは、話が完全に横折れしたままにおわってしまいますので、正論の座談会(冷戦勝利史観)から飛び出して、次に進みます。江崎道朗氏は「戦前から中国共産党に操られてきた日本の左翼勢力」(「正論」平成27年9月号)という素晴らしい記事を書かれています。「きっかけは日清戦争だった」という小見出しではじまるように、第二次世界大戦からではなく、日清戦争から始まっています。「正論」の過去記事を推薦しますが、入手困難な方のために、江崎氏の該当部分の講演(本ほど詳しくはない)を見つけました。これを次の記事にリンクしてあげてみます。

アメリカの教材に見る1960年代初頭の日本

アメリカの教材に見る1960年代初頭の日本


・・・・・・・・・・・・・・・・・
Eder Jofre KO3 Katsutoshi Aoki
ファイティング原田の栄光
・・・・・・・・・・・・・・・
1970 日通記録映画 「花ひらく日本万国博」
・・・・・・・・・・・・・・・・
Japan in the seventies (2) 70年代の日本:
・・・・・・・・・・・・・・・



Albert Kahn 写真と映像

外国人カメラマンが見た戦前の日本
見てわかる、聞いてなお分かる、時間は取らない、印象に残る。
詳しい論考(戦前だけでは時代がわからない)でも検証でもないが、とりあえずのUP.
単なるYou TubeのUPです。外からの情報、視点は、面白いですね。 


そういえば、フランスのまるこ様、神道の本をせっかくフランス語で書き、掲載写真の許可までとれたのに、最後の最後で、没になってしまいましたね。過剰反応されたのか突然のドタキャン、原因はどこにあるのか、全くわかりませんね。

そういえばこの前ハイパーサーミアの見学の帰りに、円山公園から祇園に出て、この辺をとおりました。付き添ってくださったM様ご夫妻、どうもありがとうございました。
haipa-.jpg

意味不明? ごめんなさい。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・

アルベール・カーンの紹介
 カーン自身はカメラマンではない。興味深い人物ですね。
よみがえる100年前の世界 日本 Albert Kahn


・・・・・・・・・・・・・・Alert Kahn・・・・・・・・・・・・・・・・・
L'insaisissable Albert Kahn
Albert Kahn’s Documentation of Humanity Through Early Color Photography
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



Manchukuo c.1937


Manchuria under Japanese Control

追加:2016年3月13日
満州国・奉天《前編》The largest city in Manchukuo 1/2
満州国・奉天《後編》The largest city in Manchukuo 2/2
The capital of Manchukuo 1 of 2
The capital of Manchukuo 2 of 2
/////////////////////////


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世界が見た明治・大正・昭和1

世界が見た明治・大正・昭和2:
世界が見た明治・大正・昭和~ ~ ~以下略

鄭蘋如的真實2008



鄭蘋茹: wikipedia 鄭蘋茹-2 ラスト・コーション関連

あれこれ探している間に聞き覚えのある名前がでてきた。この記事の中にある「夢顔さんによろしく」に出てきた近衛文隆をハニートラップに陥れるあの女の名前だ。
鄭蘋茹が近衛文隆にベッドの上でことのあと激しく訴えるシーンがあった。Blogに引用したかったが、タイプうちも下手だし、しかも長すぎたので中止したままだ。「日本は孫文やシナのためにあれだけのことをたくさんしてくれたのに、なぜいま日本は中国と戦争しているのか」と。
あれだけのことをたくさんしてあげたのに、何故シナは欧米諸国と結託して日本だけ敵対視し日本だけを攻撃してくるのか」と。そういう視点しかもたなかったので、こういわれて正直言ってぎょっとした。哲学で言う相互主観性というものなのだろう。どうしようもない、もやもやとした気持ちを敢えて残してきた。
この映画の最後の最後で鄭蘋茹の日本人の母親がいうセリフを聞いて、そのもやもやが晴れた。ただここでこのセリフがあるからこそ、この映画は見る価値がある、というわけではない。
この時代の上海、まだまだベールに覆われたままだ。この映画でベイルの2,3枚は剥ぎ取ることができたような気もする。
読者の方々にこの映画の感想など、お聞きできたら、ありがたいのですが。

そもそも何を「あれこれ探していた」のか、というと「東亜同文書院」関連をあれこれと、の最中に偶然このfilmを見つけました。

追記:2016年3月4日

必須参照として
ジェスフィールド76:  その2
CC団
藍衣社
丁黙邨
李士群
戴 笠

ついでの参照として
ハンス・フォン・ゼークト
アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン:
SINO GERMAN Cooperation 1937
German Military Mission to China 1927-1938
蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団 -しばやんの日々 より

そういえば今日の新聞にこの本の広告が出ていました。
ara.jpg


太平洋に散った英霊のために

2015年12月25日、Paris同時多発テロ、の記事の後半部に付随していた記事ですが、長いうえに内容があまりに異なるので、本日(2016年2月26日)さらに追記しBlog Topに移行させました。
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「ヨーロッパ解体と野蛮の台頭」
のYou Tubeのコメント欄で、
以下のような丸谷元人氏の本とペイジがあることを知った。
全く遅ればせながら丸谷氏に関する紹介の追記としたい。

marutani.jpg

日本の南洋戦略 1~17


日本シーレーン問題研究会


/////////2015年12月25日 追記/////////////////
参照1:ラバウル小唄
Wikipedia & You Tube
参照2 :ラバウル海軍航空隊
Wikipedia & You Tube
参照3:ラバウル航空隊 wikipedia
参照4: 映画 さらばラバウル wikipedia
参照5:You Tube
日本ニュースから大日本帝国海軍航空隊の爆撃、訓練シーンを抜粋したもの,らしいです

上のYou Tubeの2番目で、丸谷氏が「謎」とおっしゃっていることに着目したのですが、私は軍事のど素人なので、全く謎が解けません。しかし、おろそかにしてはいけないご指摘ではないかと思います。

私の父はアマチュア海軍研究家で、Navyというサークルで創設当時(1950年代)から海外活動、海外交流をしていたようで、子供の私は軍艦の本や写真や模型の中に埋もれて育ちました。後に(父は1960年3月、私が小学校5年生の時に亡くなっています)聞くところによると、西ドイツの海軍評論誌”Marine Rundschaw”や、同じく西ドイツの海軍年鑑"Weyers Flottentaschenbuch"とコンタクトをとったり資料の提供などをしあったりして、世界に数人の同好の友人を持っていて(主に軍人が多かった)、夜毎タイプライターを叩いては、精密な情報の収集・交換に励んでいました。typewriter.jpg
私は小さくて、病弱で、馬鹿で、父からは何一つ教えられていません(高校生になって父が文通していた英国軍人と文通などをしたこともありますが。この方は晩年イタリア海軍年鑑の招待で一度日本に来られました)。
最近ぼんやりと思うのですが、海軍力では決して劣っていたわけではなく、「作戦」さえ、冴えきっていれば、日本は勝っていたかもしれない、否、勝っていたと、勝てる戦争だったと思っていたのではないかと。戦争にはいろんな要素が絡んでくるので、あくまでも、後で気がつくなんとやら、だとは思いますが。父は英国軍人と、持ち駒を確認しあった上での「再びの太平洋戦争」をしていたのです。これは私も良く知っています。父が部屋一杯に海図を広げて、楽しそうにリヴェンジの作戦を練っていたのを見ていたからです。
Navy Circleの会報(この号には父に対する追悼文が掲載されている)によると(以下引用)「最近会誌上にて連載、異常な反響を諸兄に与えた”紙上決戦太平洋”は、日本に於いては、戦前ー戦後を通じて、全く初の試みでもある、遠く海外にいる外人研究家を相手に、審査官も外人研究家による、新形式の海戦ゲーム。これは単なる幼稚な海戦ゲームではなく、太平洋戦争で敗北を喫した日本海軍のあだ討ちを、紙上にて決せんものと、○○氏は当会の聨合艦隊司令長官として、全面的に一切の采配をふるわれ、それに必要な海軍戦略、戦術、それに海軍兵力の準備配布、根拠地の選定、出動準備、補給整備、兵力の運用に関する兵術に加うるに、使用艦艇の戦闘力、艦隊編成と各種隊形と連動、偵察と警戒、通商破壊戦、航空及び通信、電波兵器等等に関する優れた知識と卓越したその洞察力を駆使されたもので、ますます戦機の熟した第6回を迎えるにあたり、長官戦死の為、今後の作戦計画は見通し甘くなり、残念ながら一応休戦とさせて頂きます」というふうな紙上決戦だったようです。勝つ自信が無ければやらなかったと思うのです。2番目のYou Tubeで丸谷氏が指摘されている「謎」のような奇妙な作戦は他にもあると思います。奇妙な作戦が無ければ、勝てるとふんで、その辺を調整して父は戦っていたのではないかと、思うのです。あくまでも私の想像です。娘だから言うわけではありませんが、御堂筋に勝利の日の丸が立ち並ぶのを夢見た父が、外人相手にたとえゲームであろうと、負ける戦争をするわけが無いのです。あとは、これは妄想かもしれませんが、すべての奇妙な作戦上の「謎」には、連合国側についた知られざる日本人スパイの存在があったのではないかと、今回丸谷氏の動画や文章を見て、ふと思ったのでした。


戦後70年、おかしなことに何ひとつ、メスが入っていないのはおかしなことです。

追記 2016年2月24日
ー開戦当時保有する空母の数は日本が8隻であり、アメリカの7隻より多かった。また戦闘機に関しては、日本は世界最強のゼロ戦を有しており、アメリカを圧倒していた。少なくとも太平洋の戦域に関しては、開戦から当分の間は、日本海軍のほうがアメリカよりも戦力的に優勢だったのである。(「世界最強だった日本陸軍」p.198 by 福井雄三)-
第4章には「アマチュア集団だった日本海軍」という小見出しのところで、海軍の作戦批判が語られている。「攻勢終末点」という小見出しのところで、その理由が説明されている。
丸谷氏が疑問に思われたラバウル撤退に関してある方に質問したところ「18年9月に設定される死守しなけれならない絶対国防圏なるものではラバウルは外れています。」というお返事をその地図とともにいただいた。この絶対国防圏なるラインを見れば、「攻勢終末点」なる理論(戦力は根拠地と戦場の距離の二乗に反比例する)を持ち出さなくても軍事のど素人でもわかる、一体何を根拠にこれだけ拡大拡散させたのだろうか?
この本の第4章「陸軍悪玉・海軍善玉論の大うそ」を読めば「アマチュア集団だった日本海軍」の真実も丸見えになってくる。海軍悪玉論がいつの間にか陸軍悪玉論にすり替わったのも、やはりひとつの史実の捏造ではないだろうか?思い当たることもいくつかある。
石原莞爾は東京裁判の出張所たる酒田臨時法廷で「もし自分が戦争を指導していたら、日本は断じて敗戦にはいたらなかった」と主張したらしいが、おかしな作戦の過ちを徹底検証し、海軍内部に巣食った怪しげな人物達(おそらく立派なと尊敬されている筈)を徹底究明することもまた必要だろう。彼らを糾弾するためにではなく、史実捏造部分を排除して真実を見極めるためにである。

追記:2016年2月26日
また同じ方に「スパイ、あるいは対敵協力者の存在はありやなしや」ともたずねてみた。否という後に「19年7月のマリアナ海戦の敗因のひとつは作戦内容が福留中将の書類鞄が盗まれて読み取られた為と言われています。」と添え書きがあった。書類かばんを盗まれた話は私の記憶にもあったが、いかにも怪しげな話なので少しBlog記事を探してみた。
あくまでも参照としてリンク3点 ↓
参照:“海軍乙事件”「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)
参照:海軍乙事件・海軍使用暗号書紛失。その関連事項
参照:大東亜戦争におけるバカども
敗戦後日本及び日本人の美点はことごとく否定され、組織的隠蔽体質だけが(善)として張り付いてしまった。

活動任務完了満願達成か ?

少し古い人様の記事より
共通歴史教科書
米ソに対抗するために,EUが共同体や共通通貨圏を構築維持するためには共通歴史認識はある程度そのバックボーンとして必要かもしれない。
One Worldの前段階としてのOne Europeを目指すとしてエリーゼ条約BarbaraのGottingenもその推進力として機能していると言う見方も出来ると思う。しかしこれをアジアにもってきて日中韓他の大アジア構想、つまりOne Asiaなどと言い出すと、日本の存続は危ぶまれる。戦後70年の間にすっかり対外的に敗北している歴史認識を見れば頷ける筈だ。
共通歴史教科書をつくる場合は太平洋上で激突した日米共通歴史教科書を模索すべきだ。新しい資料が次々と出てきているので、東京裁判史観を払拭できる可能性もその過程で獲得できる。その上でさらに独仏程度の和解や理解や対等の立場は達成できるはずだ。いつまでも亀のように首をすくめている必要はない。
西尾先生がおっしゃるように、「ドイツにとってのフランスは日本にとってはアメリカである」からだ。あるいは逆手を取って、日本にとってのアメリカは、フランスにとってのドイツと発想する立ち位置もありえる筈だ。

大勢の学者を使ってこういう組織が何をしてきたか。
「日本政府は苦肉の策として韓国と日本の歴史学者らが韓日関係の歴史を共同研究することによって懸案を処理することを提示した。両国政府の調整の結果、韓日の首脳は2001年10月の会談で、『韓日歴史共同研究委員会』の設置に合意した。」 日本が交渉で出来ることは「譲歩」即ち引き下がる以外は何も出来ない、出来たためしがない。最初は反対して、抵抗した素振りは見せるけれど、すべてそこまで。
今もまだこの連合組織存続し活動しているのだろうか。それとももう、活動任務完了満願達成か。組織を良くご存知の方に教えていただきたい。

追記:2016年2月22日
この組織も含めこれに類する共同研究とやらは、発足当初から目指す方向性、最終目標、なにもかも丸分かりなのに、なぜこういったものに大金や日本の頭脳をせっせと組み込んでいくのだろうか。
参照:こちらも古い人様のコラムより
「日韓歴史共同研究事業」に意味はあるのか?:
こうして過去を覘いてみると、敷かれたレールに乗っかって、今日の仮の満願に到っていることが分かる。目的に到達するための、見せかけだけの共同研究である。もっと先の到達目標も見えているのだけれど、今は書くまい。

追記:2016年2月27日
日独韓3カ国共同研究? えぇ? そもそもはドイツの提案?
参照:2013年9月12日13日 日記風メモ
ドイツにとってのフランスは日本にとっての韓国だと、ドイツが主導したいわけ???

追記:2016年2月28日
直前のリンクをクリックして現われる記事は物凄く長いので、当記事との関連部分のみ取り出して引用します。
(注目!↓)
ー「幾度となく繰り返される靖国神社参拝は、日本の外の世界に対して、第二次世界大戦に責任がある軍の指導者に対する尊敬と崇拝の念を伝えているかのような印象を与えます。これに対して、多くの韓国・朝鮮人や多くの中国人が強い不快感を示すことを、不思議に思ってはなりません」講演のタイトルは「日本、ドイツ、そして近隣諸国」。元西ドイツの首相が2010年の日独センター記念祝賀会で、何を言うのか。また何故こんなものがNHKドイツ語講座のテクストに取り上げられるのか?講師は筑波大学の相澤啓一氏とボン大学のReinhard Zollner氏。「シリーズを終えるにあたって」で相澤氏はこう書いておられる。
「ちなみにツェルナー氏と私の共同作業は、番組終了後も続きます。新たに設立した日独韓共同大学院「TEACH」がそれで、この修士課程では、三ヵ国の学生たちが三大学を巡り歩いて共同研究し、デュアルデグリーを取得することになっています」ー日独韓共同大学院?独韓が寄ってたかって日本にドイツと同じ罪悪感を植え付ける目的の三ヵ国共同研究?歴史解釈の統一のため?Helmut Schmidtの講演をテクストにして?相澤氏とReinhard Zollner氏がまたもやコンビを組んで?日独韓共同大学院?
同テクスト9月5日はRichard Sorge。ゾルゲが記者として「フランクフルト新聞」に書いた1940年11月13日の記事「大転換ー三国同盟による日本の外交政策の転換」。ー今後日本は、イギリス及びアメリカ合衆国との対立を深めるのである、と締めくくっている。なんのことはない尾崎と共謀して北進を南進に変えてロシアを救った、スパイとしての手柄話を記事にしているだけである。相澤氏の解説にはSorgeが日本に与えた究極のとも言える打撃に関しては、発言もないし、そもそもそういう視点もない。ー

Stalin's Spies


Secrets Of War, Espionage 07
Stalin's Spies 見ごたえ在り 見る価値在り

日本の資料で、手探りで調べ上げたSorgeの働きに関して、ここでは、詳しくしかも秩序立てて明快に語られている。
Stalin's Spiesに関しては、ひとりひとり日本語でのもっと深い研究が必要だろう。
最初はやはりスペインの内乱に関して全く新しい視点からの解明の必要を痛感した。
そのあとは、粛清の凄さに恐怖を覚えた。
日本ではまだスターリンの研究そのものが足りない。手足が竦んでいるのだろうか?
スターリンに繋がる日本人スパイの名前が一切ここでもでてこない。日本史的にはあまり大物過ぎて対象になりえないのかもしれない。その辺に関しては、繰り返すが終戦交渉の仲介をソ連に徹底依存したその条件、その推進人物達を人体を裏返しにするくらいに天下にさらさなければ、なにも解明されない。今頃になってもまだお気の毒な司馬史観の「ちょろり」(シミチョロならぬシバチョロ)で欣喜雀躍している次元では、話にもならない。(何のことかは、お分かりでしょう?)
Espionage云々の日本側の解明は不可能だとしても、ノモンハンの戦史捏造を、そしてその後の影響を少し考えただけでも、イロハのイから日本の近現代史は洗いなおすべきだと、それくらいはわかるだろう。

映像に関する参照-1
Ceci n'est pas une pipe.(by Bruxelles) 過去記事
David Alfaro Siqueiros : Painting

映像に関する参照-2
映画「The Assassination of Trotsky (1972)」 ↓


//////////////////
追記:2016年2月13日
Stalin's Spies を途中でやめたSpies
Elizabeth Bentley -資料室:
Book Discussion on Clever Girl: Video
Out of Bondage: The Story of Elizabeth Bentley
Elizabeth Bentley & William Remington
Whittaker Chambers : Witness:
彼らの証言によって初めて明らかになった真実も多い
/////////////////////

Zhang Xueliang 西安事件 とは

          Zhang20Xueliang203.jpg
            Zhang Xueliang


Brief history of Zhang Xueliang (張學良)
and General Yang Hucheng 楊虎城 (right) :

とりあえず、張學良の顔くらい記憶に留めて置いたほうが
映像を見るときに役立つだろう。まずイメージが違う
(声と言い顔と言い、まるで川島芳子、女ではないか?)。
40年少し前にパリでカメルーン人のポール(Paris大生)から蒋介石と毛沢東の正しい英語、フランス語発音を偶然会話中に教えてもらったが、その後外国Filmを見る際に役立っている。中国人の名前に関しては、その発音と漢字表記と日本語読みがバラバラなので、たくさん一時に出てくると、資料あさりの際にはかなり苦労する。

Rooseveltに会いに行く予定だったMao

面白い記事にたどり着いた。長いのでしっかり全部読んだわけではないが、とにかくこの大切な他人様の記事にリンクを貼らせていただく。すっと全部がしっかり頭に浸透するわけではないが、今まで獲得した情報がビシバシと接合されてゆく。いい加減な記事にはしたくないので、ゆっくり進めるつもりだが、どうなるかはわからない。手ごたえのある読者層が、はたしてあるのかあまり期待できない。経験から言えば全く期待は出来ない。
ブラック・プロパガンダ
Homeには繋がらないし、文字も300%くらいにしてみている。

・・・・・・・・・・・・・・・
上を見つける前にこれを読んでいた。
SACO
これを読んで、この漢字に行き着き、(戴笠 SACO)で検索を繰り返し、上の記事に行き着いたと思う。
この記事も肉親が書いている分、非常に興味が湧く。時間の関係で、まだ全部を読んでいない。
戴笠 wikipedia
China's Mystery Man : 拡大すれば読める。
・・・・・・・・・・・・・・・
戦争ものの記録性の高いYou Tubeを次々と見ていたのだが、Maoに行き着いて、それをとりあえずじっくり見ることにした。が視力の保護のために目を閉じて聞いているうちに、うとうとしてしまった。Jack Serviceが出てきた辺りから、真剣に聞くようになった。アメリカは二股をかけて結局はMaoに利用された事実がなんとなく見えてきた。あまり語り尽くされた部分ではないので、まずそのYou Tubeを下に貼ります。米中関係。ニクソンは別れた昔の恋人とよりを戻すような気持ちで、中国に行ったのでしょうね。米中関係の男女関係のような過去の歴史?初めてじゃなかった、filmで暴かれる両国の過去の深い関係。
Secrets Of War, Deadly Intelligence 01 Mao's Secret
Rooseveltに会いに行く予定だったMao:37分10秒あたり~最後まで

これの後半を聞きながら、同時にMilton Miles SACOで検索を繰り返し、直前の興味深い記事を見つけた。半分寝ていたので、よくは覚えていないが、だいたいそういう手順で、最初の(幻の)記事に行き着いた。
(追記:幻の記事と書いたが、執筆者は内容的にも以下の記事(『正論』平成19年1月号:こちらも非常に内容が濃い)の執筆者と同一人物と思われる。このあたりはこの方の全くの独壇場であることを思い出した。ついでにこの辺りに関するTel Quel Japonの過去記事にもリンクしておく (1) & (2)
理解に不可欠とも思えるので、その他の参照も付け加える。
Creating the OSS: FDR’s Network of Personal Spies
BookTV: Maochun Yu, "OSS in China: Prelude to Cold War"
・・・・・・・・・・・・・・・・

You Tubeやネット上の記事から何を引き出すかは、最終的には、個人に委ねられる。「ゆっくり進めるつもりだが、どうなるかはわからない。」 自分で考える読者にとっては、もうこれで充分だろう。

Lebensborn

The Last nazis 3 Children of the master race ↓

Lebensborn :wikipedia
Master Race 60 minutes clip

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戦争の傷跡に引っかかれた子供たち
Norway's Nazi legacy
Norway's "lebensborn"
アンニ=フリッド・リングスタッド:=Fridaの場合
(ABBA) Frida wikipedia:
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父がドイツ兵だったことを35歳で初めて知った。
War children wikipedia:
Gerard Lenormanの場合
Gérard LENORMAN " Warum mein Vater ... "
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全く別の話題ですが,
子供たちの理不尽な悲劇として:参照↓
親ナチの父を持ったフランス人姉妹の話
Anne Sylvestre(歌手)& Marie Chaix(作家)
(5)~(1)と順番が逆ですが(1)~(5)の順番で
追記リンク:Marie Chaix et Anne Sylvestre,
deux sœurs et un secret d'enfance:
この記事には、10のコメントが入っています。最初と2番目のコメントは私Bruxellesが2012年に書いたものです。つまりこの記事の私の感想です。
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The Real Albert Goering


Watch The Real Albert Goering in 人物・ブログ | View More Free Videos Online at Veoh.com
注意:見ている途中で切れる場合は、最初に戻り、マウスで右に引っ張る。途中でコマーシャルが入る場合もある。

要約を文字で読む場合は↓。
Albert Göring, Hermann's anti-Nazi brother
The Good Göring: How a Top Nazi's Brother Saved Lives

Albert Goeringの一生を考えると、人生とは、という観点にたってしまう。
しかし、戦争の観点で考えると、スパイ活動も可能だったのでは、とも思える。
アルバートの活動は、まだ日本には知られていない。どうなんだろう。
シンドラーほどの人道主義者としての名声を与えられることが、この先あるのだろうか?
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WHAT'S IN THE PRESS Thirty Four
by William Hastings Burke
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撤退の歌ではなかった、さらばラバウル

このfilmの10分から10分58秒あたりに「しかしまださらばラバウルよ、と歌い上げるほどの余裕を持っていたのです」とナレーションが入る。余裕があったなら、撤退は現場では謎であったと言える。しかし振り返ってみるに、この撤退は、なぞどころかまさに「お手上げ」のドーニモコーニモという撤退だったことがわかる。
以下は「日本側がラバウル空戦を撮­影した唯一の実写映像」とのこと
ラバウル航空隊 昭和19年(1944年)1月17日
「しかし、うろたえる必要は全くない」のナレーションをお聞きの逃しなく


日付から察するに撤退はおそらく兵士にとっても「寝耳に水」だったことがわかる。
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過去記事からの一部再録
・・・2015年12月25日 追記・・・
参照1:ラバウル小唄
Wikipedia & You Tube
参照2 :ラバウル海軍航空隊
Wikipedia & You Tube
参照3:ラバウル航空隊 wikipedia
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ラバウル小唄(南洋航路)、以下は左のBlog頁からの引用
ラバウル小唄は1944年(昭和19年)頃、太平洋戦争末期に流行した。この歌は1940年(昭和15年)にビクターから発売された「南洋航路」(赤い夕日が波間に沈む・・・)の替え歌である。(作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫)

ラバウル小唄 wikipediaによると
「よくラバウル海軍航空隊と間違われることがあるが、全くの別物で、あちらがラバウル航空隊を歌ったものであり、こちらの歌は海の男や、ラバウルへの船旅のことを歌ったものだと言える。」
「歌詞に太平洋戦争の日本海軍の拠点であったラバウルの地名が入っていたこともあり、南方から撤退する兵士たちによって好んで歌われた。」とある。
結論として、戦況の好転を信じた兵士達が、帰国?の喜びを戦前に流行した「南洋航路」に「さらばラバウルよ」と歌詞をつけて、つまり替え歌として、敗戦濃厚な日本に持ち帰り流行させたのだろう。
南洋航路」 You Tube 歌詞&歌
ノーテンキな「ラバウル小唄」は従って錯覚または、錯乱の果ての流行歌だと言うことが理解できる。
軍歌というより、イントロを聞けば、むしろ「盆踊り」を連想させるのもそのためだ。この時すでに密かに、終戦工作が始まっていた。

ドキュメント太平洋戦争 前編

すべては議論の種として ドキュメント太平洋戦争
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第1集 大日本帝国のアキレス腱 1992年12月6日放送
~太平洋・シーレーン作戦~
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見捨てられたニューギニア本島の日本陸軍
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さらばラバウル
航空要塞・撤退 19年2月 (9分15秒~10分49秒)
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ニューギニア未帰還兵展 
& ゆきゆきて神軍
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第2集 敵を知らず己を知らず 1993年1月10放送
~ガダルカナル~
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Victory At Sea ep 06 Guadalcanal 米国FILM:
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Tel Quel Japon過去記事
Evans Carlson & Guadalcanal
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第3集 エレクトロニクスが戦(いくさ)を制す 放送日 1993年2月7日
~マリアナ・サイパン~
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精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである

第4集 責任なき戦場  放送日:1993年6月13日
〜ビルマ・インパール〜 
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インドで歌われる日本兵を讃える歌
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ミャンマー白骨街道のいま
拡大してフル・スクリーンでご覧ください。

WW2: Dusko Popov, The Real 007



「歴史通」1月号「日本の真珠湾攻撃情報は007(英)からFBI(米)に伝えられていた」 by 岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)について少し調べてみようと思っていたが、なかなか時間が無かった。勿論今もないのだが、お正月でもあることだし、少しだけ触れてみた。
Tel Quel Japonでは、James Bondのモデルとして、William Stephensonについては以前から紹介している。ついこの前紹介した丸谷氏もこちらをJames Bondのモデルとされている。今回の岡部氏の記事によるとモデルはトライシクルことポポフとなっていた。スパイ小説のモデルなのだからいろんな人物が混じっていて当然である。私は007シリーズの映画には一切興味がなくて何も見ていないので、なんとも言いようがないが、一作目の「カジノロワイヤル」に関しては、どうやらトライシクルに似せたスパイ娯楽映画らしい。
参照:Inspirations for James Bond
参照:ドゥシャン・ポポヴ
参照:The Intrepid Life of Sir William Stephenson
参照: Tel Quel Japon過去記事より
William " Intrepid" Stephenson
William " Intrepid" Stephenson(2)

D-Dayに関してはスパイ組織が大活躍したり、非常にややこしい内部駆け引きがあったと以前から知っていたが、日本の敗戦に密着してくる話でもないので、いままでD-Dayを取り出して取り上げることはしていない。
今回は岡部氏の記事をより深く理解していただくために上のYou Tubeを見つけて来たので、貼り付けることにした。
重要要素は全部入っていて、しかも本人も顔出しで登場するので、「歴史通」で読むだけよりも、はるかに立体化した受け止め方が出来ると思う。
新年なので身体に悪影響を与えない、軽めの記事で、ご挨拶いたします。

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・・・・・追記:参照・・・・・・・
double.jpg

Double Cross - the true story of the D-Day spies : Vimeo

Paris同時多発テロ 

西尾幹二先生の日録に「ヨーロッパ解体と野蛮の台頭」というタイトルのYou Tubeが出ている。
新鮮なタイトルだと思う。全部の内容に関してコメントするほど資料を蓄えているわけではない。ただ、Paris同時多発テロの関連記事を最近書いたことを思い出した。7月27日の犠牲者追悼の模様をご覧ください。
dans la cour des Invalides à Paris
あまり見ている日本人は少ないようなのでこの記事をTel Quel Japonで紹介することにしました。
これだけではTel Quelの記事としては物足りないので、事件当日のフランスの特番も探してきました。
日本の新聞やTVなどの報道とは、全く臨場感が違う。Food for Thoughtとされることを期待しています。
Paris同時多発テロ:特番: 最初しばらくCMが入ります。

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長々と別内容の記事が続きますので、
本日(2016年2月26日)後半部の内容を別記事として
blog topに移動させます。
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ココダ遙かなる戦いの道 丸谷元人

遅ればせながら丸谷元人氏を少し紹介させていただく。
初めてお顔を拝見した。私の世代の人間からみれば、
成長した「森田必勝」に、類するお顔だと連想が浮かんだ。
こちらは古くて申し訳ないが、チャンネル桜から
ココダ遙かなる戦いの道』から見る戦史の秘話1[桜H24/6/27]
ココダ遙かなる戦いの道』から見る戦史の秘話2[桜H24/7/4]

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HAJME MARUTANI
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同じテーマの別のFilm
KOKODA - The Bloody Track (Part 1 of 9)
KOKODA - The Bloody Track (Part 2 of 9)
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KOKODA - The Bloody Track (Part 7 of 9)
KOKODA - The Bloody Track (Part 8 of 9)
KOKODA - The Bloody Track (Part 9 of 9)

上記 KOKODA The Bloody Track に対して
彼が制作に関わった映画「Beyond Kokoda」について↓



米英に通じていた外務省の「スパイ」

正論2016年1月号を読んでいて、ワッと思わず声が出てしまう、嬉しい記事に出会った。
米英に通じていた外務省の「スパイ」 by 丸谷元人
ーここまで丸裸で外交と呼べるのか。今も昔もインテリジェンスに疎すぎる危うさー
タイトルのそばに小さなこの一行がついている。
内容は3種類からなっている。一番最初が勿論一番重要で、この文章の要である。
引用として、文章すべてを書き出したいくらいだが、時間と体力がなくて残念に思う。
前回の文章の続きだが、アメリカにコミンテルンのスパイやイギリスのスパイが入り込んでいたのだから、当然に日本にもいたはずだ。ゾルゲや尾崎がいたのだから、もっといたに違いない。ゾルゲや尾崎やその仲間でさえもうやむやにしているくらいだから、学者の研究からは具体的な役割や名前は今まで出てこなかった(有るにはあったがほとんどあてずっぽうで説得力のあるものは皆無だった)。永遠に出ないと絶望していた。筆者の丸谷元人氏は肩書きに「危機管理コンサルタント」とある。歴史認識とは異なる世界の方だ。だから、この記事が書けたのだとおもう。保守のワンパターンとは全く異なった新鮮な視点・嗅覚を持っておられる。
「外務省のスパイ」は、今回一人だが名前が出てくるのだ。「英国諜報部は、ワシントンの日本大使館、ニューヨークやサンフランシスコの日本領事館の内部に情報源を獲得していた。(1月号P.209)」 この部分の出典は以下の本のP.153と書いてある。Stephensonはもともとカナダ人なので、タイトルにCANADAが出て来るのだ。
canada.jpg
またこの本も出典として登場する。
著者はH. Montgomery Hyde
丸谷氏は「ハワイの地元の新聞では数回にわたって、日本軍がもうすぐハワイを空襲すると伝えていた」、これはTel Quel でも写真を出して伝えたが、このことにも触れられている。もうひとつTel Quelではさんざん触れてきたが反響の全く無かったMKウルトラにも触れられていて、私としては嬉しかった。MKウルトラに無知のままでは、先の戦争も戦争の怖さも語れないと思っているからだ。(MK ULTRAに関する過去記事 Tel Quel Japon & Tel Quel Japon & 詩集「2N世代」

英国工作員に情報を売っていたのは、外務省米国局第一課長、しかし実際に正論の記事を読んで頂きたいので、名前は書かない。これは丸谷氏のお手柄だし、私自身がまだ第一資料で確認したわけではないので、記事を読まれることをまずお勧めしたい。
この記事のP.211にも詳しく書かれているが、大体「開戦の通告が何故遅れたか」について、様々な事情が唱えられてきたが、考えるまでもなく、あまりに馬鹿馬鹿しい説明ばかりだったではないか。理由にもならない理由をいろいろ挙げて、遅れた言い訳として、敢えて汚名を胸に抱きしめてきたのが、日本国なのだ。日本にはアジア侵略や世界征服に血眼になっている軍閥など、敵方数カ国のプロパガンダのなかにしか存在しない、そのことにどうか気づいていただきたい。そのためにはこの内容てんこ盛りの丸谷氏の記事をぜひお読みいただきたい。そして出来るならばこの部分は、Tel Quelの前回の記事「Baker Street Spies in Wartime Washington 」と関連付けて読まれることをお勧めしたい。どちらもよりわかりやすくなるはずだ。

3種類と書いたが、もうひとつは、尖閣や北方領土や竹島の問題を考える際に、そこに至る歴史的工作が、いかなるものであったか、が具体的に書かれている。そして最後のひとつは、「戦後日本を覆いつくした米国や欧米諸国への甘い幻想から目覚め、その支配構造に薄々気づいてみる感性が国家のリーダー層には必要だ」ということが、具体的危機感と共に書かれている。「インテリジェンスに疎すぎる危うさ」は、もう国家の底をつき抜けていて、日本の政治家やブレーン達の頭の集合では、いまさら修復は、全く効かないような気もするが、これからはnever too late、何事にも遅すぎることは無いと信じて、丸裸はやめて、服を着た外交を、まずは考えていただきたい。この声、耳に届けと切に願っている。

参照:外務省の怠慢?

/////////////追記:2015年12月20日/////////////
「インテリジェンスに疎すぎる危うさ」は、もう国家の底をつき抜けていて、と書いたが、そういうのは、やはり比較しなければ、御納得いただけないだろう。たとえばスパイといえば、今でも真っ先に頭に思い浮かべることが出来るのは日本人ならば、川島芳子と明石元二郎ではないだろうか?前者は身分も名前も顔も丸わかりなので、スパイの最低条件すら満たしていない、最初からスパイと言う言葉の誤用でしかない、また後者は、恐ろしいほどの大金を単純にばら撒いたと言う点で、諜報技術や作戦の低さ、つまりコスト・パフォーマンスの低さばかりが浮かび上がる。
それに比べれば、敵側についた日本人スパイは、戦後ぬくぬくとしすぎて、その発掘さえまともに始められていない。
(今回の丸谷氏の記事は極めて例外的で、それゆえに価値がある)
話は飛ぶが「見えない鳥の存在」に英米のスパイ組織でヨーロッパで大活躍した女スパイの実話を取り上げてみたので、リンクを貼ることにした。枢軸側は悪で連合国側は善という大前提があるので、ドイツ人をコテンパンにやっつけた彼女達は、フランスからは大感謝大感激され、大天使扱いだ。前にも書いたと思うが、OSSの女スパイとしては他に有名なところでは、マレーネ・デートリッヒやジョセフィン・ベイカーがいるが、つくづく見てみると、この時代は情報をどう盗るか、どう集めるかまた無事にどう運ぶか、どんなガセ情報を作り出しどうばら撒くか、任務はそこに集中しているように思える。何が言いたいかというと、今はもうそんな時代ではないだろうということだ。武器が変わったよりもはるかに、諜報の仕事の内容も大きな変化を遂げているだろう。想像を絶するはずだ。

参照:見えない鳥の存在:
Les Marguerits Fleriront ce Soir
参照:見えない鳥の存在:
Virginia Hall & other female american spies
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Baker Street Spies in Wartime Washington

Book Discussion on The Irregulars : C-Span
yuudou (163x250)
The Irregulars: Baker Street Spies in Wartime Washington↓You Tube


長年に渡って良く研究しておられる方でも「何故日本は真珠湾に飛んだのだろうか」「どれほどの勝算があったのだろうか」とよくおっしゃる。そして研究しておられる方も全くしておられない方も「勝たない戦争はしてはならない」「戦争など、どんなことがあっても絶対にしてはならない」と口をそろえておっしゃる。挙句にだれが、もちろん(軍部の暴走ということになっているのだが)そういう方向に(戦争に)祖国を突入させたのか? 天皇陛下の御心を無視して、と。そして犯人探しを極悪人探しをすることだけが、半ば昭和史の研究テーマとなっている。違うとはおっしゃるまい。
開戦に到る過程にせよ、真珠湾の真実にせよ、充分資料は出揃っているにもかかわらず、間違を犯したと言う反省に立ち、罪悪感を伴ってしか、歴史を見ることが出来なくなっている。GHQやOSSによる日本占領計画や罪悪感の植え込み洗脳を、知る知らないに関わらずである。

さて、リスニングの苦手な方のために上の本の内容紹介をするに際して、選りすぐったリンクを貼ることにした。
Jonathan Yardley on 'The Irregulars'
The Irregulars: Roald Dahl and the British Spy Ring in Wartime Washington by Jennet Conant:
Amazomのコメント:良くまとまっている。
The Irregulars: Roald Dahl and the British Spy Ring in Wartime Washington
Henry Luce and British Intelligence
Jennet Conantの講演を聴いていてたくさんのことが繋がってきた。前々から怪しいと思っていたJournalistsの名前がたくさん出てきた。もうひとつはアメリカとドイツの戦前の経済交流(アメリカのrichな投資家たちはドイツの企業と深く繋がっていた。そのうち注目すべき企業名もスポンサー名も出せると思う)。モンロー主義ゆえに、ヨーロッパで何があろうと、富者も貧者もアメリカ人の大半はまさか祖国がヨーロッパの戦争に巻き込まれるとは、最後の最後まで思っていなかったと言う事実があるからだ。さらにJannet自身に関しても書いたものをみれば、今後調査の際に再浮上する可能性がある。一言で言うと私にとっては盛りだくさんの内容なので、久しぶりにTel Quel Japonに記事を持ってきた。

何故一冊の本とその著者の講演をここに取り上げたかというと、ルーズベルトの周りには、コミンテルンのスパイのような人物が数百人いたと言われてきたが、それだけでなくワシントンには友好国であるはずの英国のスパイもたくさん侵入していたこと、その事実をこの本によって明白にしたかった。Roald Dahl and the British Spy Ring in Wartime Washingtonの目的はアメリカを戦争に巻きみ英国を助けること。Roald Dahlがワシントンに来るのはPearl Harborの後だが、この組織自体はそもそもアメリカ参戦を呼び込むために、Pearl Harborへの誘導をルーズベルトやチャーチルと共に工作した可能性は高い。
Pearl Harborはアメリカが仕組んだことはCFRのBarbara WaltersTV番組で事実として報道していたが、それにはアメリカだけでなくイギリスも噛んでいたと言うことだ。よく聞けばわかると思うが、そこには勿論DonovanやWilliam Stephensonが、英国側からアメリカに登場して、諜報機関とはいかにあるべきかを最初に教えるのである。
もうお分かりだろう。英国はアメリカをその必要からスパイ目的のターゲットにし、その前段階として英米は日本を諜報活動のターゲットにしていたのだ。コミンテルンの陰謀だけではないと言うこと、それを明らかにするために今回はthe British Spy Ring in Wartime Washingtonを取り上げた。

つまり大日本帝国は、そもそも戦争意思を持って計画的に自ら進んで、真珠湾に飛んだわけではない、主体的にではなく客体的に(四面楚歌の状態で)そう動かざるを得なかったのである。この辺りのことは、ほとんど知られていないが、DonovanやWilliam Stephensonの研究を続けると、彼らが何をしたか、全容はもっと具体的に明らかになるだろう。
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このような()&()&()の記事を書いている最中にthe British Spy Ring in Wartime Washington に偶然に出くわした。(3)で紹介している本もJennet Conantの作品である。
DonovanやWilliam Stephensonを深く知るには広告とPropagandaとJournalism(Journalists)の歴史にもまた熟知している必要がある。

・・・・・・・・・追記:2015年11月28日・・・・・・・・・
この本の表紙↑に出ているのは、主人公のRoald Dahlである。wikipeiaで見ると、当然のことだが、スパイ活動には、一切触れられてはいない。それだけでもJennet Conantの仕事の価値が理解できると思う。DonovanやWilliam Stephensonにまつわるイギリス人スパイたちの米国に於ける活動を様々な資料を使って炙り出し、興味深い本に纏め上げたのは彼女の功績である。
Roald Dahlが原作者である映画「Charlie and the Chocolate Factory」の一部をYou Tubeで、興味のある方はご覧ください。こんな作品を生み出せる能力があるということは、Jennet Conantの言うようにRoald Dahlはきっと魅力的な人物だったのでしょうね。
尾崎やゾルゲのようにコミンテルンのスパイで祖国を敗戦に誘導する裏切り者と、Roald Dahlのように祖国の勝利のために自分の才能を(彼の場合はその美貌?と社交性を)縦横無尽に発揮する、祖国の英雄、とでは同じスパイでも雲泥の差が有りますけどね。この辺の区別だけはしっかりとおさえておきましょうね。同じイギリスのスパイでもケンブリッジ・ファイブと、全く違うところですね。

・・・・・・・・・追記:2015年11月29日・・・・・・・・・
Jennet Conantの祖父James Bryant Conantを紹介しておきます。↓

以下の一行は少し上のリンク「祖父James Bryant Conant」より抜粋。
Conant served on the Interim Committee that made the decision to use the atomic bomb against Japanese cities without providing warning.

参照:Development of the OSRD
上記リンクから一行引用。
Much of the NDRC's work was completed under strict secrecy, but Roosevelt's decision gave the United States an 18-month head start for employing science in the war effort (see: Report of the National Defense Research Committee for the First Year of Operation, June 1940 - June 1941).
重要なので参照として追加した。この辺のリンクを次々と辿っていくと、Jennet Conantが入手したであろう資料がわんさかと出てくる。DonovanからFDRへ、のタイプ風メモ等々がいくつも出てきて、ついに体力的、時間的な限界が来てしまった。興味のある方はご自分で上のリンクを辿られるとよい。松岡が日米了解案を握りつぶしたから、日米開戦を回避できなかった、といまだに思っている優等生の方達は、腰を抜かして石仏の角で頭を強打して卒倒されませんように。Roosevelt's decision gave the United States an 18-month head start...

八月の石にすがりて 伊藤静雄 戦争詩 (3)

八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。

運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
白き外部世界なり。

見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木陰をつくれ。
われも亦、

雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。

昭和11年 1936年9月 「文藝懇話会」9月号初出
「詩集夏花」 昭和15年3月刊 収録

雑誌「文藝懇話会」は、一種の政府外郭団体として、昭和9年1月に内務官僚である元警保局長松本学が提唱し、菊池寛・直木三十五の文壇の重鎮の協力を得て作られた官民合同の文化団体文藝懇話会から、11年1月に創刊された雑誌である。政府支援の文藝・思想をコントロールする柔構造の政策であった。
その創刊号の「宣言」には「文藝懇話会は、思想団体でもなければ、社交倶楽部でもない。忠実且つ熱心に、日本帝国の文化を文藝方面から進めていかうとする一団体である」とうたっている・・・。
・・・
2・26事件を契機に、時代は急速に右傾化していく。2年前からその発刊を準備されていた「文藝懇話会」が、このクーデターの年に創刊されていることを、昭和文学史の上からやはり注目せねばなるまい。その第一巻第九号にあたる9月号は室生犀星の編集で、同誌最初の詩の特集号であった。・・・
「八月の石にすがりて」はこの号の巻頭詩であった。
・・・
作者としての詩人伊藤静雄の意思に全く関わらぬところで、昭和十年代の文学的ナショナリズムを担う詩として、広く時代の詩的共感を得たことは確かであろう。
・・・
この生活の次元から静雄の人と文学が語られることは少なく、多くの場合、昭和十年代という時代の思想としてのナショナリズムに於いて、その文学が裁断され、あるいは賞賛されてきたことは、静雄の文学の不幸といわねばなるまい。
(以上、「詩の読み方」小川和佑近現代史 笠間書院刊 P.152~P.163より抜粋)

「八月の石にすがりて」も有名な詩なので、ネット上にもかなり紹介されている。が、現在、初出誌「文藝懇話会」に触れたものも、時代背景として昭和11年に触れたものも他には見当たらない。
太平洋戦争を日本史の視点に限定してみる場合、やはり2・26はゾルゲ事件同様決して軽視してはならぬものだろう。
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私の祖母は「忠臣蔵と2・26は毎年やってくる」とTVをみながら言っていたが、邦楽と古典と相撲と日本史が好きな平均的日本人は、そして右傾向が多少ある日本人はたいていこの両方が好きである。何故なのかはわからない。好きならば、もっと突き詰めればよいと思うのだが、あまり何も考えない。もはや映画やTVの題材でしかない。
私にとっては、2・26とそれが起こった昭和11年(1936年)は、祖父がなくなった年だと記憶されている。
「2・26について詳しく知りたいから、新聞を取り残しておいて欲しい」と病床の祖父が祖母に言ったらしい。そしてそれを読まないまま祖父は亡くなった。その記憶があるから祖父がなくなったのは昭和11年だ、ということだけは私の知るところである。昭和11年はどんな流れの中の一年であったのか、そして「新聞を取り置きしておいて欲しい」と言った祖父の心情を時々想像してみる。
満州やシナにおける日本に不吉なものを感じていたのか、あるいは日米関係の心配をすでにしていたのか?
祖父はハイスクールから大学まで、ほとんどの教育をアメリカで受けてきている。おまけに仕事は貿易、対米貿易である。
この辺のことをすでに知っていて、遠くない将来の日米決戦を予感していたのではないか、そんな気がする。激突すれば、米国に12年間も留学して学んだことは、個人史のなかの大きなマイナスにしかならない。活躍の場も無くなってしまう。既に喘息は悪化、体力もなくしている。仕事も行き詰っている。とりおきしていた新聞を読まずに亡くなったのは、すでに状況的に心情的に、そんな新聞を読む気力もなくしていたのではなかったか。祖父の亡くなったのは1936年の4月11日だし、まさか原爆やB29の空襲による丸焼けや日本の敗戦の夏まで予想していたとは思えないが、結局新聞を読まなかったということは、生きる体力も気力もすでに失せていたと確信する。人が病に倒れ、死んでゆくとは、そういうことなのだと思う。

八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。